安全保障関連のニュースが日々流れています。
戦後70年間、日本は戦争しない国、軍隊を持たない国、という事実と建前によって、軍事との距離が開いた結果、日本人の多くが国内外の軍事面についての知識が不足しているように感じます。(私もその一人です)

昨今の報道番組などを見るに、議論の前提となる知識や情報の提示が全く不足していて、ひどいものになると、ほとんど感情的とも言えるシーンに多くの時間を費やしているものも見受けられます。

もっとも、政府の説明も、極端に簡略化した例え話や、聞こえのいい文句を並べることが多く、かえって国民をはぐらかそうとしている印象を受けるのが残念なところです。

おかげで、率直に現在の世界情勢、自衛隊の現場説明、世界の動向などを知りたいと思ったら、各自がそれぞれに努力して調べないといけない状況にあると思います。

私も目下勉強中でして、今回の法制について、今その賛否を明確な論拠を持って表明することはできません。

(一応、今回の法制と無関係に個人的な考えを述べておきますと、理想と現実に配慮しつつ改憲し、一定の国防力を保持し、万一の事態に備えた法制は整えていくべきだと考えています)

ただ一つ言いたいのは、賛成反対どちらの立場に立つとしても、感情に走らないことと、自分自身で考えるべし、ということです。


安保法制は、人の生命に関わるような危機的事態、あるいは人間のあらゆる暴力的な面につながる事態に関わる法制です。
そのような重大な問題だからこそ、賛否関わらず、多くの人が声を上げていると思います。

このツイートを見た時、かつて読んだ、ある文章を思い起こしました。

ファシストは澄んだ瞳で現れる。
戦後では、ファシストというと、ひどい悪人のように言われていたが、そうではない。大部分は、むしろ「いい子」だからファシストになった。
そうした純真な子どもをだましたのが、悪いおとなのファシストかというと、それも大部分は、人のいいおじさんたちだった。
森毅『まちがったっていいじゃないか』「やさしさの時代に」より

強く断っておきますが、ツイート内の人がファシストだとか、デモ内容を批判したいとか、そういうことではありません。
ツイート内容は「賛成派」とありますが、仮に「反対派」となっていても、同じことを思い起こしたと思います。

何が言いたいかと言うと、この問題の主張への共感を感情面を強調して訴えたりすべきではない、またこれを見た人も感情面を拠り所として、賛否を判断したりすべきではない、ということです。

人の情の温かみも、瞳の力も、美の有無も、その主張の内容とはなんの関わりも無いものですし、優位性とも関係がありません。

理屈よりも感情に働きかけるほうが強い力になりやすいものです。
私が危惧するのは、自分で考えることなく「かっこいい」「力強い」「気持ちがいい(わるい)」「美しい」・・そういう気持ちや感覚によって主張の流れができたり、結束が強くなることです。


すでに書いた通り、この法制に係る問題は様々な要素が絡み合っており、一目では善悪の判断がつきにくく、明確な答えの出ない問題です。
ある決断が最終的に良かったか悪かったかは後の世にならないと分からない。
それでも一定の結論を出していかないといけない。
非常に辛抱強さ、忍耐力のいる仕事です。

ところがその決断をする人(議員)を選出する有権者の中には、日々の生活に追われてそれどころではない、自分の聞きかじる情報でやりくりするしかない、という人も多くいると思います。

「この問題が重要なものであることは分かるけど、突き詰めて考えることはできない、だから誰か考えてくれ、決めてくれ、簡単な判断材料をくれ」という気持ちになってしまうのも無理はないように思います。

この話が本当かどうか知りませんが、RT数などを見るに、同調した方も多いと判断します。

どのような意図でリストアップされた一覧なのか、またその賛成または反対している人や団体が、どのような立場からその意見を表明しているかを具体的に知らず、ただ感覚的に判断を下すのであれば、それは他人の用意した答えに乗っかっているだけです。

ここで、ファシズムといっているのは、集団の意思が自分の意思のかわりをすること、ぐらいに考えておいてよい。集団が考えるように自分が考える、というのは嘘なのだが、そのように自分をだますと、とても安心していられるようになる。

間接民主主義というものが、そもそも人の判断に乗っかっていくものではありますが、だからと言って、自分で考えることを放棄していいことにはならないと思うのです。

自分一人が考えても、選挙へ行っても、何も変わらない。
このようなセリフはよく聞きますが、この考えは、自分が全体の一部であることを忘れています。
部分の動きが全体の動きにつながると知るべきです。

部分部分が感情ではなく、理性的な判断を重ねることで、全体として、そのような方向に舵をとれると思うのです。
理性的というのは何も理屈をこねろ、というのではありません。
少なくとも感情ではなく、考えた結果に基づいて行動しようということです。

いまの時代、りりしさへ向けてとびたつのだけは、抑えてほしい。やさしさの世界に生きつづけることのほうが、大事なことなのである。そして、辛抱づよさのいるものである。その辛抱のなくなったときに、ファシズムはやってくる。


現代では、国の内外を問わず、複雑で分かりづらい問題が山積しています。

ただ、複雑な問題と対峙した時、あえてシンプルにも明快にもするのではなく、複雑なまま捉える器量が必要なのではないかと思います。

世界情勢というものは、それぞれが相互に意味を持っているので、例えば工業製品のように無駄を削ぎとってシンプルな形へ、などとすることは、そう簡単にできるものではないはずです。

複雑な世界を複雑なままに受け入れて消化していくという覚悟を持って生きたいものです。