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絵画を理解するのではなく愛する

2008/08/09

現代将棋とモダン・アートを読んでいて、そこの引用になるほど、と思ったのでメモ。

・「ピカソの不満は、人が絵画を「理解しよう」とすることにあるのではなく、人が絵画を「愛そうとしない」ことにある・・・」(「20世紀美術」 高階秀爾著)

小鳥のさえずりや、一輪の花を、「理解しよう」とする人はいない。
ただ、愛する。

しかし、絵画や音楽になると、まず理解しようとする。

「絵画をまず理解しようとする人」になんとなく違和感を覚えてきたのだが、
その理由が(ちょっとした衝撃と共に)やっとはっきりしたので、メモっとく。

関連リンク:
現代将棋とモダン・アート
現代将棋とモダンアートについての雑談

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創作について

2008/04/12

■そもそも

技巧的な作品に対して、感性的な作品、
(あるいは具象的作品に対して、抽象的作品)
という図式があるとして「感性的な作品」というのを
勘違いしてる作品があるんじゃないかと思ったので、
その原因がどこにあるのか考えてみたいと思った。

■創ること

実存主義から拝借して、2パターン。

A.本質が実存に先立つ。
B.実存が本質に先立つ。

Aの例
・はさみ
「紙を切る何か」(これが本質)→試行錯誤のうえ実体ができる

Bの例
・人間
(本質無し)→存在する

イメージ的に技巧的作品はAで、
感性的作品はBのように思える。

創作において、Bのパターンがあるかどうか、

Bにおいては、創造者がいない。
ところで、人が創作する場合、人が創造者となる。
従って、人の行う全ての創作はAである。

と考えれば、Bは無い。

■傾向

Aは、創作の行為そのものが面倒。
当然ながら、まず思考しうる本質ありきで、考え、
考えたら、それを継続して、実現させないとだめ。
途中で挫折すると、そのことをはっきり自覚できてまう。

対して、一見Bに思える、自分の感情の赴くままに創るというのは、
本質想起から実体までの距離が短いだけのA。A2とする。

「感情・気分」(これが本質)→作品

A2は、思考が無く(気分についての思考は、気分そのものではない)、
すぐ行動に移せるうえ、創造的な感じがする。
思考手順を無くす試み。

いかに純度を保ったまま形するかが難しく、
規模が大きくなるほど制作の段階で甘え紛れ込んで、
曖昧な部分を他人の解釈任せにしてしまう可能性が高い。

■つまり

創作には(イメージとして)
「すごい人が才能と努力でようやく得られる大変なもの」と、
「一歩間違えたら(?)、僕にも簡単にできるのでは」的なもの
(分かりやすいところでは前衛芸術)の2種類ある気がするけど、
本質の実体化という意味で、実際にはどの創作にも違いは無いということ。

ただ、違う種類の、プロセスが必要になるということだ。

具象的作品に必要なプロセスが、抽象的作品に無いからといって、
抽象的作品に必要なプロセスが無いわけではない。

具象的作品に必要であるところのものが、抽象的作品においては存在しない、
と思い込むところが勘違いの原因になる。

■それで

感性的な作品にも必要なプロセスがあることを確認し、
「感性的」というのを思考回避・解釈委任の免罪符に使わないように気をつけよう、と。

そんな免罪符持って何か創るくらいなら、
ギャーって言いながら外を駆け回ったほうが、
よっぽど素直な表現だし、そんな光景を見たらきっと心が動かされる。

どちらを選択するにしても、やるからには覚悟を決めてやる。
自分も時間を使うし、鑑賞するほうも時間を使うのだから、
それなら、一生懸命やったほうがいいだろうと思う。

■えーと

突っ込みどころ満載だが。
創作については難しいなー
もう、一つずつ丁寧に考えるべきことが山のようにある。
創作について考えることは人間そのものについて考えることだ。
絶対全ては分からないだろうなぁ。

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リーナス・トーバルズ - それがぼくには楽しかったから

2007/12/22

デイビッド・ダイヤモンドとの共著、
それがぼくには楽しかったからを読んだ。

Web業界にいて知らない者はいないLinux開発者のLinusが、
その人生哲学やLinuxについて語っている。

もちろんコンピューターのことに明るいほうが楽しめるけど、
あまり詳しくない人でも、興味があればオススメできる。
そして、コンピューターをいじってる人は何が楽しいのか少し分かるかもしれない。

物理学では、世界がどのように作られているかを見つけ出そうとするけど、コンピューター・サイエンスでは、自分で世界を作るのだ。

プログラミングは何かを築く行為であり、
その世界では自分が神となる。

悪役だが、トレインマンの言葉は象徴的だ。

ここは俺が作ったのさ。
ここじゃ、ルールも俺が作る。
ここじゃ、俺が神だ。
MATRIX REVOLUTIONS

ちなみに自分の創造したはずの被造物が思い通り動かずに苦しめられるのは、
実際の神と同じではある。

芸術と技術をどのように組み合わせるかの問題だ。

単に使うだけならソフトウェアなんて動けばいいのだが、
やはり同じ動作にも実現方法はたくさんあって、
芸術的なやり方から、そうでないのまで様々だ。

絵画にも、モナリザのようなものもあれば、
単に絵の具をぶちまけたようなものがあるようなものだ。

そして、やはり美しいものは生み出したくなるのである。
そうして、日々コンピューターに向かう。

プログラミングに夢中になる理由のほとんどは、
自分が創造主になれることであり、
自分の能力次第で美しく仕上げることができる、
ということにあると思う。

これはほとんど全ての芸術と同様だと思う。

多少なりとも生存が保証された社会では、お金は最大の原動力にはならない。
人は情熱に駆り立てられたとき、最高の仕事をするものだ。

オススメ度★★★★

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G.H.ハーディ - ある数学者の生涯と弁明

2007/09/14

ある数学者の生涯と弁明を読んだ。

イギリスの数学者ハーディが自身の数学観を述べたエッセイ。
数学者らしく、あるいはハーディらしく、率直かつ簡潔な文章でまとめられている。
第二部として、C.P.スノーによる「ハーディの思い出」も収録されている。

興味深い話が凝縮されているが、中でも面白いのは、
数学を実在論的な見方でとらえていることだ。

確かに、1920年代に量子力学の基礎が成立してからは、
実在する物体の基本が、直感的にはつかみどころの無いものになってしまった。

それに対する数学について、ハーディは言う。

「317」は素数であるのは私たちがそう思うからでも、
私たちの心が何らかの形でそう思うようにできているからでもなくて、
それがそうだからそうなのであり、
数学的実在がそのようにできているからである。

数学は論理の積み重ねであるから、
その意味で、吟味すればするほど、はっきりと見えてくるものであり、
その存在に確信を持てるものなのだろう。

もう一つ、面白いのは、数学に有用性があるかどうかという話。
要するに、加減剰余ができれば実生活で困らないじゃん、という話なのだが、
その意味で、確かに高度な数学というのは全く有用性が無いと言う。

では、このような数学にどのような意味があるのか。

高度で純粋な数学者は、一種の芸術家である。
他の分野の芸術と同様に、創造性が求められる。

数学の歴史は、創造の歴史でもある。

数学者は、自分から創造性が失われることをはっきりと自覚でき、
それを二度と手にすることができないことを悟る点で、
悲劇的である。

そして、その瞬間は、

思いのほか早くやってくる。
それは悲しむべきことであるが、もしそうなれば、彼はどのみち重要でなくなるし、彼のことを心配することは愚かなことである。

高度な数学は、創造物という点で、
絵画や音楽、その他の芸術と同様に価値がある。

他のいかなる芸術家の仕事の価値と種類において変わらず、ただその程度において異なる価値である。

直接、人々の幸福に関わるような有用性は無いかもしれないが、
価値を創出するという点において、数学は無意味なものではない。

オススメ度★★★

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サイモン・シン - フェルマーの最終定理

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芸術、人間の勝利

2007/08/06

先日のエントリ「ゲームと芸術」の、
本質は究極的には生と死に集約される、
というところから派生させてまた考えてみた。

なぜ、我々はファミコンに飽き足らず、次世代機を求めたのか。
なぜ、ファミコンにとどまることができなかったのか。

それは、我々が原始時代にとどまれなかったのと同様だ。

より楽に暮らしたい。苦痛から逃れたい。
そんな本能の要求に従った理性は、多くの苦痛を征服してきた。
征服できないものは隠されてきた。
生老病死は常に隠蔽の対象だ。

隠蔽は理性が本能に屈した結果だ。

征服することができず、本能にその現実を突きつけることもできない。

そうして、人間は本質を・・・生と死を覆い隠そうとする。

本能に立ち向かえない理性の弱さ、
それが人間の弱さだ。

しかし、芸術家は、本質を直視する。

本能に逆らって苦しむ。

本能に逆らうのは、ただ理性のなせる業だ。

芸術は人間に課せられた使命であり、特権である。

もしそうであれば、芸術は、崇高であり、偉大であり、あるいは滑稽である。

本質を隠しながら、本質を探そうとする。

本能が隠すものを、理性が探す。

苦しみは理性と本能の叫びだ。せめぎあいだ。

苦しみから逃れよ、と本能が叫ぶ。
本能に逆らって理性が叫ぶ。
苦しみのうちに理性が勝利し、芸術が生れる。

芸術は人間の勝利の証だ。

美は人間の内にこそある。

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ゲームと芸術

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ゲームと芸術

2007/08/03

時々、ゲームは芸術たりえるか、とか考えたりする。
ゲームというのはいわゆる古典・伝統的なものではなく、
現代的な、日々量産されているビデオゲームなどだ。

この問いは切り口が多くて一度には考えつくせないと思うので、
思い出した時に考えることにしている。

ということで、たまには無駄に頭を働かせてみよう・・。
今日は「本質」という切り口で。

もし、世界の本質などというものがあるとすれば、
音楽、絵画、文学、ゲーム、
そういう概念は世界の本質の具象化だ。

ここで言う世界というのは人間を取り巻く環境そのものを指す。

そして、本質が概念に先立って存在するのであれば、
概念が本質的に不平等であるはずはない。

本質と別に概念があるというより、
本質の様々な振る舞いを概念と呼ぶほうがいいかな・・。

世界の本質を捉えたものを芸術と呼ぶなら、
あらゆる概念は芸術たる資格がありそうだ。

ところで、概念のほとんどは目的に通じ、目的は生に通じる。
目的の無いもの(それは死そのものしか無い気もするが・・)は死に通じる。

つまり、世界の本質は究極的には生と死に集約される。

となると、生と死が意識されない作品が芸術になりうるだろうか・・

ビジネスとして育ったゲームは、プレイヤーを大事にしてきた。
大事にせざるを得なかった。

プレイヤーはセーフティネットで守られる。
生と死の意識がそれだけ薄められる。

システムがプレイヤーにやさしくなればなるほど、
あるいは、システムが複雑化するほど、
意識はシステムへと流れる。

皮肉なことに、ハード環境に余裕が無かった時代のほうがより本質に近かった。

貧しい描画能力では、描く対象の本質を観察する必要があった。
要するに、表現力が乏しいなら、余分なものは全てそぎ落とす必要があるのだ。

そして、貧しい演算能力と記憶能力は、システムにも同様の要求をする。

(貧しいことは芸術にとってマイナスではないかもしれない・・)

システムへの意識が低い分、
ゲームとしては不親切だったかもしれないが、
本質により近かったという意味で、
昨今のゲームよりは芸術度が高いようにも思える。

FF12を忘れても、スペランカーは忘れないのである。

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