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ゲームとは

2008/03/01

自分が成長できないゲームは面白くない。

というか、成長してると実感できないゲームは面白くない。

だから、そのゲームの大部分が既に学習済みのことであるなら、
きっとそのゲームは飽きる。成長してる実感が無いから。

逆に難しーいゲームも飽きる。成長する前に潰されるから。

ちょっとやればちょっと成長できそうなゲームは面白い。

そして、この「ゲーム」という言葉を置き換えて通じるものは全部ゲーム。

「遊び」「勉強」「人生」「世界」

ただ表現が違うだけ。

だと思うことにしてる。

別にゲームがなんであるか、ということを決めたいわけではない。

ただ、自分なりの指標を持ってると、自分が何をしてるか見えてくることもある。

これから何をすればいいのかも。

考えること。
間違いに気付いたらすぐに認めること。
新しい指標にたどり着くこと。
弁証法的。
難しい。

関連記事:
「おもしろい」のゲームデザイン - 楽しいゲームを作る理論
木村央志 - ゲームクリエイター作法

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木村央志 - ゲームクリエイター作法

2007/09/29

どんなゲームを作りたいのかではなく、どんなカルチャーにするべきなのかこそが大切

ゲームクリエイター作法を読んだ。

ゲームが企画されて世の出るまでのアレコレ、
ゲームについての信念・考察がコンパクトにまとめられている。

僕が普段考えていたゲームの在り方と、
本書で考察されていた在り方のベクトルが大分似通っていたので、
興味深く読むことができた。

リアルであること、というのはどういうことかというので、
写真のボケみたいのが引き合いに出されていたが、これはピンときた。

最近のデジカメなんかは、マルチオートフォーカス機能がついてて、
これで建物を背景にスナップ写真など撮ると、
近くの人物はもちろん、遠くの建物までしっかりピントが合う。

全体としてキレイなのだが、
実際プリントしてみると、どことなく不自然で嘘っぽい感じになってしまう。

つまり、何もかも細部までしっかり写ることと、
リアルであることとは関係が無いのだ。

メインでない部分はあえてボカすこと、
これによってテーマを浮き彫りにでき、
かつリアルにもできるということになる。

ところで、ゲームで「リアル」というと、真っ先に連想されるのが
「実写に近い」というイメージなんじゃないかと思う。
そして、やっぱり時代が進むごとにゲームの映像は実写的になってきた。

しかし、ゲームがより写実的になることは
ゲームがより本質的になることにはならない。

現在のコンピューターは電気信号の0か1で動く。
その土台の上に築かれたゲームは、やはり0と1の世界でしかない。

それが良い悪いという話ではなく、
本質が0と1という世界なのだ。

ゲームとは、もとよりアレゴリーの産物なのだ、という結論に達する

本書では、ゲームの寓意性が語られるが、
ゲーム=寓意(アレゴリー)というのは、かなり本質的なところだと思う。

ゲームの土台は0と1である。
我々の世界はそうではない。

我々の世界と違う土台の上で、
我々の認識できる世界を構築すれば、
それは寓意的である。

あと、いくつかヒントっぽくて面白いもの。

(キャラ作りについて。好きなもの、○○と書き連ねるよりも)
きらいなこと、嘘。
とあるほうが、はるかにキャラクター性をつかみやすく、感情移入もできるというもの。

アクションコメディというのは、ちょっとしたこと、普通の人にとって造作のないことがうまくできない、それが笑いになるんだ。
たとえば石鹸があったとして、アクションコメディアンは、その石鹸をうまくつかむことができない。つるっと滑らせてはドタバタと大慌てする、そのさまがおかしいんだ
ローワン・アトキンソン

与えるゲームは必ず失敗する

オススメ度★★★

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芸術、人間の勝利

2007/08/06

先日のエントリ「ゲームと芸術」の、
本質は究極的には生と死に集約される、
というところから派生させてまた考えてみた。

なぜ、我々はファミコンに飽き足らず、次世代機を求めたのか。
なぜ、ファミコンにとどまることができなかったのか。

それは、我々が原始時代にとどまれなかったのと同様だ。

より楽に暮らしたい。苦痛から逃れたい。
そんな本能の要求に従った理性は、多くの苦痛を征服してきた。
征服できないものは隠されてきた。
生老病死は常に隠蔽の対象だ。

隠蔽は理性が本能に屈した結果だ。

征服することができず、本能にその現実を突きつけることもできない。

そうして、人間は本質を・・・生と死を覆い隠そうとする。

本能に立ち向かえない理性の弱さ、
それが人間の弱さだ。

しかし、芸術家は、本質を直視する。

本能に逆らって苦しむ。

本能に逆らうのは、ただ理性のなせる業だ。

芸術は人間に課せられた使命であり、特権である。

もしそうであれば、芸術は、崇高であり、偉大であり、あるいは滑稽である。

本質を隠しながら、本質を探そうとする。

本能が隠すものを、理性が探す。

苦しみは理性と本能の叫びだ。せめぎあいだ。

苦しみから逃れよ、と本能が叫ぶ。
本能に逆らって理性が叫ぶ。
苦しみのうちに理性が勝利し、芸術が生れる。

芸術は人間の勝利の証だ。

美は人間の内にこそある。

関連記事:
ゲームと芸術

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ゲームと芸術

2007/08/03

時々、ゲームは芸術たりえるか、とか考えたりする。
ゲームというのはいわゆる古典・伝統的なものではなく、
現代的な、日々量産されているビデオゲームなどだ。

この問いは切り口が多くて一度には考えつくせないと思うので、
思い出した時に考えることにしている。

ということで、たまには無駄に頭を働かせてみよう・・。
今日は「本質」という切り口で。

もし、世界の本質などというものがあるとすれば、
音楽、絵画、文学、ゲーム、
そういう概念は世界の本質の具象化だ。

ここで言う世界というのは人間を取り巻く環境そのものを指す。

そして、本質が概念に先立って存在するのであれば、
概念が本質的に不平等であるはずはない。

本質と別に概念があるというより、
本質の様々な振る舞いを概念と呼ぶほうがいいかな・・。

世界の本質を捉えたものを芸術と呼ぶなら、
あらゆる概念は芸術たる資格がありそうだ。

ところで、概念のほとんどは目的に通じ、目的は生に通じる。
目的の無いもの(それは死そのものしか無い気もするが・・)は死に通じる。

つまり、世界の本質は究極的には生と死に集約される。

となると、生と死が意識されない作品が芸術になりうるだろうか・・

ビジネスとして育ったゲームは、プレイヤーを大事にしてきた。
大事にせざるを得なかった。

プレイヤーはセーフティネットで守られる。
生と死の意識がそれだけ薄められる。

システムがプレイヤーにやさしくなればなるほど、
あるいは、システムが複雑化するほど、
意識はシステムへと流れる。

皮肉なことに、ハード環境に余裕が無かった時代のほうがより本質に近かった。

貧しい描画能力では、描く対象の本質を観察する必要があった。
要するに、表現力が乏しいなら、余分なものは全てそぎ落とす必要があるのだ。

そして、貧しい演算能力と記憶能力は、システムにも同様の要求をする。

(貧しいことは芸術にとってマイナスではないかもしれない・・)

システムへの意識が低い分、
ゲームとしては不親切だったかもしれないが、
本質により近かったという意味で、
昨今のゲームよりは芸術度が高いようにも思える。

FF12を忘れても、スペランカーは忘れないのである。

関連記事:
芸術、人間の勝利

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トラスティベルシナリオの検証と考察

2007/07/15

※ネタバレあり。

先日クリアしたトラスティベルの何が良くなかったか考えてみる。

最初に言っておくと、映像と音楽、それを支える技術力は最高だ。
ブーニン氏のショパンを5.1ch非圧縮で録音している点も見逃せない。

というわけで唯一にして最大の難点、シナリオについて考える。

■現実世界(現代日本)へのメッセージを語るキャラ

キャラのセリフがあからさまにプレイヤーの世界へ言及している。
プレイヤーにはゲームの世界へ入り込んでもらわないといけないハズなのに
逆に現実へ突き戻している。

ゲーム中だけでは物足りなかったらしく、
エンディングではキャラが総出でプレイヤーを問い詰める。
小一時間問い詰められる。

オープニングであれだけ引きずり込んでおいて
エンディングで突き返すとは恐れ入る。

ファンタジーの魅力は、本質をそのままに、
表層(現象)だけを変えていることにあると思う。

本質的に現実世界とリンクしていれば、
後はその世界観を徹底して完結させれば良い。

そのリンクを発見するのはプレイヤーの役割であり目的だ。

プレイヤーは、その世界での本質を現実世界にも発見し、
あるいは現実世界の本質をゲームの世界に発見して感動する。

その中のキャラが、自分の世界を突き破って、
こちらの世界に言及してくる時点で、相当プレイヤーを愚弄している。
ファンタジーの意義は消滅し、プレイヤーの目的は奪われる。

目的が無くなったゲームほど退屈なものは無い。
終盤にかけて明らかに退屈になったのはそのせいだろう。

本作ディレクターであるトライクレッシェンドの初芝弘也氏は

中学生くらいまでは全く意味がわからないかもしれません(笑)。でも、聞いたときは難しくても、大人になれば分かる……というのはあると思うんです。小さくても雰囲気は分かると思いますし。わたしも子供のころ、何も分かってはいませんでしたが「ガンダムの世界はかっこいいな」と思ったり(笑)。
ITmedia

と語る。

ガンダムがかっこいいのは、ガンダムがガンダムの世界で完結しているからだ。
シャアは決して視聴者に呼びかけない。
どのキャラも徹底してガンダムの世界で生きている。
だから視聴者はガンダムの世界を信じる。

そして、そのガンダムの世界でのセリフが、
実は我々の世界でも使えることを発見して「かっこいい」と思うのだ。

トラスティベルのキャラはプレイヤーに話しかけることで
結局、自分達の行為はお芝居だったということをプレイヤーに暴露する。

ディズニーランドから帰ろうとしたら
キャラが着ぐるみ脱いで手を振ってるようなものだ。

にわかにトラスティベルの世界が信じられなくなる。
キャラのセリフは、全てが嘘っぽく思える。

■道具的にキャストされるキャラ

キャラを増やすと、それぞれの人生背景から手軽にストーリーを取り出すことができる反面、
必然性がなくなり、「とってつけた」感が強くなる。
各キャラに合った話をしないといけないので、話題も散漫になる。

それでいてキャラを印象付けるために
いきなり重そうな発言するから、プレイヤーはついていけない。

そのキャラに十分付き合って、苦楽を共にした後で初めて響くようなセリフが
ぽんぽん出てくるので、興ざめしてしまうのだ。

表層の事象で説明しようとするから、沢山のキャラが必要になってしまう。
本質を突き詰めれば、そんなに沢山のキャラは必要ない。

光のアレグレット、闇のポルカ、
その光と闇に照らされて深みを与えられるショパン、
それで十分だったのではないか。

スパイスとしてパーティに加えるなら、
ビート、サルサ、ビオラくらいか・・
その他は登場はさせてもパーティには不要だと思った。

■漠然としたテーマ

いろいろメッセージを発している割に何が言いたかったのか分からない。
人生の意義?勇気?正義?

このままでいいのか、行動しろ、みたいなことだった気がするが、
ポルカが自ら命を犠牲にするというのはいかがなものか。
一歩後ろに下がる勇気ってちょっと違うだろ、みたいな・・

最悪なのは、それでショパンが生き返ったり、
最終的にポルカも戻ってきたりすること。

今、青少年に最も悪影響与えてるのってそういうところなのでは?

いや、ショパンは現実で死んで夢で生き返ったんだよとか、
ポルカは落ちてるだけだったでしょ、
などというのはファンタジーを借りたごまかしでしかない。

ショパンとポルカは死んだ。
しかし、不思議な力で生き返った。
それがエンディング中の数分間で起こる。

さらに隠しダンジョンでも死んだはずのキャラが現れ、
みんなで頑張れば生き返る、みたいな展開になる。

命はこんなに軽く扱うものではない。
あれだけ社会的なメッセージを発信し続けた後で
何故こんな重大なことが見逃されるのか不思議でならない。

■結論

伝えたいメッセージはあるのだろうが、
「物語」にまで昇華されていなかった、というのが一番の印象。

内容以前の問題だなぁ・・

関連記事:
Trusty Bell トラスティベル ~ショパンの夢~

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発見すること

2006/09/09

トルネコの件

がちょっと面白い。

トルネコとはなんぞや、という方のためにちょっと説明すると、
ドラゴンクエストIVというファミコンソフト(RPG)の物語の一部に出てくる主人公です。
(正確には主人公でない気もするけど、一応プレイヤーが操作できる、ということで)
で、トルネコはとりあえず、店番して客にアイテム売って、
親方からゴールドを獲得する、というのを序盤にやるわけです。
ちなみにこの行為はやろうと思えばいくらでもできます。
それを受けて・・

奥さんがいて定職があって、何かイベントが起きたら冒険が始まると思っていたら自分で仕事をサボって出かけないと何も始まらなかったのが衝撃的でした。

最近のFFとかやると、一本道で、途中でアイテム落ちてると「!」みたいなフキダシが出たりと、
もうプレイヤーとしては思考停止状態でも進めるような作りなのですが、
(もっとも、どうでもいい所でストレスたまるよりはいいのですが)
トルネコに見られるような不親切さは、よくよく考えれば面白い。

それを発見できなければ、ただの苦痛になってしまうんですがね。

そのリンク先の

ゲームと不親切 その1

で言っている「空の青さ」も同じようなもので、
直接、言葉やビジュアルなどで訴えなくても、
プレイヤーが自ら「発見」できることってゲームに限らず
モノづくりの目指すべき所かもなぁ、と思ったり。

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シンプルに攻める - 初心者と達人の狭間で

2006/02/15

今では、インターネットという言葉を知らない人はだいぶ減ってきたようですが、
では実際「webサイトとは」と問われた時にいくつかサイトが思い浮かぶ人は
実はそれほど多くないのではないかと思います。

そんな中、UI革命やweb2.0現象が広まってしまうのは、いかにこの業界の変化スピードが早いかを物語っています。
ネットに慣れていない人が慣れる前に、AjaxやDHTMLによるUI革命が起きているわけです。

この革命は「慣れていない人でも、簡単に使えるようになった」という類の革命というよりは、既存のハイパーリンクに飽きてしまった人のための革命という気がします。

実際、web2.0と言って、もてはやされるサービスには、面白いと思う反面、
自分の親が(場合によっては友人でさえも)理解できるのかどうか疑問に思うものがあります。

それでは、懇切丁寧なサイトが良いのかと言うと、一概にそうではありません。

誰にでも経験のあることだと思いますが、親切はおせっかいになることもあります。


青い下線のある所は、マウスのカーソル(矢印)をそこに合わせて、マウスの左ボタンをクリック(押す)と、それに関する別のページが表示されます。

などと、全てのページに書いてあっても、助かるのは最初の一回だけで、後は無用の長物なわけです。

* * *

それでは、初めてでも分かりやすく、慣れても飽きがこないものは何か、という話になるのですが、
これは、やはり「シンプルなもの」ではないかと思うのです。

結局、使う人はあらゆる思想や、目的の背景を持って来るのですから、
それに対応するには、できる限りシンプルに、
あらゆる解釈に耐えうる作りにしておくことが必要ではないでしょうか。

例えば、丸い物体でも、白と黒で六角形と五角形の模様が付いていれば、
もうほとんどサッカーボールでしかないのですが、
そのまま置いておけば、リンゴかもしれないし、惑星かもしれないわけです。

もし、その丸い物体を、色んな人に見てもらいたいなら、
下手に装飾して、一部のサッカーファンしか集まらないよりも、
そのままを置いて、食べ物好きや、天体学者も集まってくれたほうが良いわけです。

「シンプル」というのは何も、画像使うな、とか、
リンクは下線付きの青文字だけにしろ、という意味ではありません。

自分の提供したいものを、余計な装飾や親切を省いて提供しましょうということです。

先の例で言えば、サッカーファンを集めたいなら、やはり白と黒の装飾は重要なわけです。

しかし、必要以上の装飾をすると、初心者のユーザーには説明しなくてはならないし、
慣れたユーザーにとってはジャマなものになってしまうのです。

では、何をもってシンプルさを磨くのか。

それはもう自分が何をしたいのか、という「目的」。
そして、それを誰が見るのか、使うのか、という「対象」。
この二つを明確にしていくことではないでしょうか。

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