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サイモン・シン - フェルマーの最終定理

2007/09/02

フェルマーの最終定理を読んだ。

常々読みたいと思っていたのを、近くの図書館で見つけたので、ついに読めた。

本書はフェルマーの最終定理にまつわる数学史のドラマをつづったものである。

まずサイモン・シンの構成力、説得力には驚愕する。
これは単に数学に興味ある人だけの本ではない。
ロマンを求める全ての人にオススメできる。
涙がにじむほどの感激で、証明の瞬間を迎えるだろう。

大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。(略)
その問題以外のことを考えてはいけない。
ただそれだけ考えるのです。それから集中を解く。
すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。
そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです。
- アンドリュー・ワイルズ

さて、問題のフェルマーの最終定理とは、以下のようなものだ。

xn+yn=zn
この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない。

よく知られたピタゴラスの定理は、nが2の時、つまり、
x2+y2=z2
である。(解の例:x=3、y=4、z=5)

ところが、このnが3以上になると解は無いというのである。

問題の意味は誰でも分かる。
しかし、これが証明されるまでに358年を費やしたのだ。

フェルマーは言った。

私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。

そして、記すことの無いまま、世を去った。

これがどのようにして証明されたかは当然、本書を読んでいただきたいと思うが、
一応覚書として、背理法による証明の概略だけメモしておく。

・フェルマーの最終定理が間違いで、少なくとも一つの解が存在すると仮定する。
・解を持つとすると、この方程式は楕円方程式へ変換できる。
・谷村-志村予想により、全ての楕円方程式は、モジュラーでなければならない。
・しかるに、変換した方程式は、楕円方程式であるにも関わらずモジュラーでない。
・よって、フェルマーの最終定理に解が存在するという仮定は誤りであり、解が存在しないことが証明された。

また、本書を読んで、
あらゆる学問の中で最も美しいのはやはり数学かもしれないと思えた。

証明は、一分の隙も無いという意味で完全であり、絶対である。
つまりイデア的な美しさを目の前にできるのだ。

世の中に、「完全」とか「絶対」というのはそう多くない。

例えば、手に持ったボールを離したら、地面に落ちていく。
それは確かだし、恐らく地球上でその反例を見た者はいない。
ところが、それを証明するすべが無い。
「絶対に落ちる」とは言えない。

宇宙船で生まれ育った人に、
「ボールを離したら、地面に落ちていく」
ことを理解してもらえるだろうか。

数学は理解してもらえるのである。

疑問の余地が一切無い「証明」という行為ができるのは
ただ数学だけであるという点で、数学は美しいのである。

「不滅」とは愚かしい言葉かもしれないが、それが意味するものになる可能性は、たぶん数学者がいちばん高い。
G・H・ハーディ

唯一の疑問は、フェルマーが当時の数学テクニックでこの定理を証明できていたのか、ということ。
もちろんフェルマーの頭の中だけのテクニックもあったかもしれないが、
証明できていたとすれば、ワイルズのそれよりも、
もっとエレガントな解法だったりするのではないかと思ったりもする。

オススメ度★★★★★

関連記事:
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吉永良正 - ゲーデル・不完全性定理―”理性の限界”の発見

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芸術、人間の勝利

2007/08/06

先日のエントリ「ゲームと芸術」の、
本質は究極的には生と死に集約される、
というところから派生させてまた考えてみた。

なぜ、我々はファミコンに飽き足らず、次世代機を求めたのか。
なぜ、ファミコンにとどまることができなかったのか。

それは、我々が原始時代にとどまれなかったのと同様だ。

より楽に暮らしたい。苦痛から逃れたい。
そんな本能の要求に従った理性は、多くの苦痛を征服してきた。
征服できないものは隠されてきた。
生老病死は常に隠蔽の対象だ。

隠蔽は理性が本能に屈した結果だ。

征服することができず、本能にその現実を突きつけることもできない。

そうして、人間は本質を・・・生と死を覆い隠そうとする。

本能に立ち向かえない理性の弱さ、
それが人間の弱さだ。

しかし、芸術家は、本質を直視する。

本能に逆らって苦しむ。

本能に逆らうのは、ただ理性のなせる業だ。

芸術は人間に課せられた使命であり、特権である。

もしそうであれば、芸術は、崇高であり、偉大であり、あるいは滑稽である。

本質を隠しながら、本質を探そうとする。

本能が隠すものを、理性が探す。

苦しみは理性と本能の叫びだ。せめぎあいだ。

苦しみから逃れよ、と本能が叫ぶ。
本能に逆らって理性が叫ぶ。
苦しみのうちに理性が勝利し、芸術が生れる。

芸術は人間の勝利の証だ。

美は人間の内にこそある。

関連記事:
ゲームと芸術

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「好きなこと」を仕事にすべきか - 美について

2006/01/21

美しいものに感動する機会がもっとあってもいいんじゃないかと思って考えてみました。

特に小学校では、実学としての英会話や株式投資やパソコンなんて教えていないで、美しいものを感じる心を育てることが必要だと思います。

もしかすると「好きなこと」ではなく、「美しいと思うもの」を職業に選ぶとうまくいくのではないかと思ったからです。

例えば、

一面に広がる小麦畑が何よりも美しいと感じたら、小麦農家。

株価チャートがこの世の美の極みだと思ったら、証券アナリストやトレーダー。

非の打ち所の無い論法こそ、と思ったら弁護士。

E=mc2で卒倒しそうになったら数学・物理学者・・・

などなど。

もちろん、たいていの人が思う「ああ、美しいな」程度ではなく、「こんなに美しいのに何故理解されないんだ」とか「他の人が感じている以上に美しいと思ってる」くらいが前提ですが。

私の恩師の一人は「かわいいものは所有したくなる。美しいものは生み出したくなる」とおっしゃっていました。
かわいいものは所有できれば満足なのですが、美しいものは生み出せないと満足いかないということです。

単に「好き」というのでは「かわいい」と感情的に同レベルであり、どんなに好きなものでも所有できてしまうと、そこで終わってしまいます。

しかし、「美しい」は生み出さなくては満足できませんので、なんとか生み出そうとします。
しかし、大抵はうまくいきません。
小麦は枯れるし、株は大損。口げんかにも勝てないし、ピタゴラスの定理も証明できないかもしれません。
それでも、美を感じる心がある限り、生み出したいという欲求は持続し、何度失敗しても再び挑戦できます。

そして、この生み出したいという欲求は、美を感じる感性が強ければ強いほど、高まっていくのではないかと思います。
およそ一流と呼ばれる人は、この美的感性が鋭く、強いのではないでしょうか。
つまり美を感じる心があればこそ、常に向上心を持つことができ、とんでもない偉業を成し遂げることができるのではないかと思うのです。

好きなことは仕事ではなく趣味にしろ、というのは正しいのかもしれません。
趣味は所有・習得してニコニコしていれば良いですが、仕事には向上心が必要です。

* * *

そういうわけで、学校では是非、美を中心に授業をしてみたらどうかと思います。
もちろん、毎日美術の時間を設けて、絵画を鑑賞させろ、というのではありません。
あらゆる教科で、その美しさを説くのです。

例えば、嫌われる傾向にある数学や物理などは、特に美しさを説くべきだと思いますし、また説きやすい教科だと思います。
「数学とか、+-×÷だけありゃ、実際困らなくね?」とよく言われますが、これは数学で美しさが教えられていない証拠です。

問題集も、ただパターンを暗記するためのものではなくて、その美しさを実感できるものであるべきです。

もちろん、それでも皆が同じように数学が美しいと思えるわけではありません。それは当然です。
だから全ての教科で行う必要があると思うのです。
もし、義務教育を終えた段階で、美しいと思えるものが無かったら、無理に普通科高校に進学するのではなく、別の道へ美を求めても良いと思います。

さらに付加価値として、このように美しいものに対する感性が鋭くなっていると、社会全体がより良いものになると思います。
例えば、ゴミやタバコのポイ捨ては減るでしょうし、人を騙すような犯罪も減りそうです。
(まあ、この辺は道徳教育の役割も大きいでしょう・・)

いずれにしろ、美に対する感性を磨くのは自分の人生にとってプラスになるのは間違いないと思います。

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