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クリーンな空気を取り戻そう

2006/06/25

喫煙が犯罪に そして逮捕も! at 吉村作治 考古学者のひとりごと

かなりの嫌煙家だったらしい。
ちょっと好感度UP(笑)

我慢すべきことを我慢できないということ自体犯罪の第一歩なんです。

喫煙をあまりに軽く考えている人が多すぎですよ。

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小林弘忠 - 新聞報道と顔写真―写真のウソとマコト

2006/01/28

新聞報道と顔写真
新聞報道と顔写真 写真のウソとマコト
を読んだ。

以前から気になっていたのですが、事件などが起こるたびに、被害者の顔写真などが掲載されているのを見て、遺族の方って本当に載せたくて載せているのかなと思っていた所に、この本があったので借りてみました。

本書では、新聞における写真の役割の変遷などが書かれています。
新聞「記事」の歴史などに関する文は多いのですが、この本は特に写真に焦点を絞っているのが特徴です。

さて、冒頭の疑問ですが、やはり以前は「ガン首集め」という呼び方があったように、人の首の写真を各新聞社が競争するごとく集めていた時期があったようです。
その中には
・警察クラブを名乗り、警察関係者であるように思わせて写真を拝借
・遺族が気づかない間に遺影を拝借
・他社に取られないよう、その家にある写真は全て拝借
など、半分盗むようにして遺族から得た写真もあると言います。

やはり全ての被害者が望んで提供したわけではないことが分かります。

* * *

本文中で引用されている1854年のキルケゴールの警句

誰でも肖像写真を撮ってもらえるようになるだろう ? 以前は著名人だけであったが。しかも同時に、われわれが皆そっくり同じ顔をしているように見せるべく事が運ばれている ? 故にわれわれの肖像写真は一枚あればよいということになるだろう

は、この問題を別の観点から指摘しています。

つまり、新聞の顔写真は、もはや真実を知るための写真ではないということです。

実際、紙面を作る際、顔写真は選別され、ことによると見やすいように修正されていると言います。

これは情報発信者が自分の意思を伝えるための道具にしているに過ぎない、という見方もできます。
新聞やニュースが客観的であることは決してありません。

凶悪な事件が起こったとき必要なのは、本当の被害者・加害者の写真ではなく、
「哀れで同情すべき」被害者像と、「憎むべき」加害者像なのです。

その感情を読者にかきたてさせるための手段が顔写真というわけです。

従って、発信側も読者側も、被害者・加害者を個の被害者・加害者ではなく、被害者一般・加害者一般で見ることになります。
これがキルケゴールの言う「われわれの肖像写真は一枚あればよいということになるだろう」に通じているのではないでしょうか。

発信側・読者側も、顔写真を(無意識であれ)「被害者一般」として見るのであれば、事件に関わった一人の人間の尊厳を貶める行為ということになります。

* * *

それでも犯罪の報道は、今この社会で何が起きているのか、そして自分達一人ひとりが何をしなればならないのかを考えさせるという意味では、必要なものです。

しかし被害者や加害者が匿名で、かつ写真も無ければ、記事はどうしても事務的なものになってしまうでしょうから、難しいものですね。

オススメ度★★

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藤原正彦 - 国家の品格

2006/01/11

国家の品格
国家の品格
を読んだ。

タイトルのわりに、読みやすい本です。
冒頭に「半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷」という一節がありますが、まあ、そうかも、という内容(笑)
ある意味煽っているような内容です。

ただ、あらゆる本がそうであるように、考えるきっかけと、指標を与えてくれるのは確かです。

そもそも本にズバリ解が書いてあることは、まれなことだと思いますが。
(このことについて書いてたら長くなりそうだったので、この次に…)

今回は、道徳について考えてみました。

最近日本でも凶悪犯罪などが増えてきて、なんか変だなと思っている方も多いと思いますが、その理由の一つは、理論が蔓延し始めてきたことだと述べられています。
理論は科学や学問などの分野では非常に有用ですが、その範囲を超えて広がってきているようです。
その結果、強者が弱者を淘汰するのは当たり前となり、勝ち組・負け組という言葉を平気で使えるようになってきたのでしょう。

理論を横行させると何故良くないのかといえば、理論が完全でない上、人間も理論通りには動かないからです。

もし人間が理論に従い、合理的な判断を下せるとしたら、バブルは起こりませんし、振り込め詐欺にも引っかかりません。もちろん戦争も起きません。
しかし、世界で初めて会社ができたころから何度もバブルは起きていますし、振り込め詐欺の被害は何億円にものぼっています。地球で争いが無い日はありません。

どんなに美しい理論があっても、人間は決して理論通りにはいかないのです。

そう考えると、よく「日本は民主主義だから」「イラクを民主国家に」などと、平和・安全・平等の代名詞のように言われる「民主主義」には何の保障も無いことが分かります。

国の代表や方向性を選ぶ国民が、誤った考えを持てば、国は簡単に誤った方向に進むということです。
ヒトラー政権しかり、イラク戦争しかり、です。

人間は理論だけではダメです。

さて、そこでどうすれば良いのか、ですが、本書では、武士道を初めとする、日本固有の道徳観などを教えよとあります。

道徳は理論ではありませんから「なぜそうするのか」などは教えません。
弱い者を大勢でいじめるのは悪いことなのです。
人を殺すなどもってのほかです。
理由はありません。

…どうでしょう?

これが納得できない人は既に理論の影に飲み込まれ始めています。
全ては理論的であるべきだ、という理論万能な考え方に囚われているのです。

逆に言えば、理論的に正しいように思えることは簡単に信じてしまいます。
そして信じた理論が破綻した時、もう八方塞で絶望し、何のやる気もしなくなってしまうでしょう。
万能だったはずの理論が破綻すれば、他によりどころとなるものが無いからです。

日本そのものが理論の影に飲まれようとしている今、このようなことを叫ぶのは勇気のいることです。

何故なら理論的に説明できないことを叫ぶのは、私は頭が悪いと言っているように聞かれてしまうかもしれないからです。

しかし、道徳を捨て理論に走った結果、例えば、いじめは耐えなくなってしまいました。

「弱い者を大勢でいじめるのは良くない」
「なぜか」
「卑怯だから」
「なぜ卑怯なのは良くないのか」
「・・・・」

ここで言葉に詰まる人は多いと思います。
それは、理論的な答えを探そうとするからです。
道徳を知っている人なら「良くないものは良くないからだ」と言うでしょう。

神を知っている人なら「神はおっしゃった」となります。
これが神の正しい使い方だと思います。
戦争の理由に使うことなど、あってはならない。

私の高校の教師は、
「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対し、
「法律で決まっているからです」と答えました。
これではいけません。

法律に無いことは何をしても良い、ということになってしまいます。

子供であれば、子供にとっての法律・・つまり、親の目・他人の目に触れなければ万引きしてもいい、と考えてしまいます。

人間と理論が万能でない以上、ダメなものはダメ、お天道様が見ている、といった、いわば非論理的な道徳教育は絶対に必要なものだと思います。

本書は、それを再確認できるものとなりました。

オススメ度★★

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