モリエール - 人間ぎらい

人間ぎらいを読んだ。
モリエールの喜劇。
なんだけど、読んで笑える、というものではなかった。
舞台になるとそれなりに面白いのかも・・
貴族の世で、
おべっかばかりで八方美人、
逆に公正一本の馬鹿正直、
その両方をほどよく兼ねた良識人。
そんな人たちのお話。
だれも彼も率直で公明正大で従順だったら、
美徳というものは、大部分無用なものになってしまうよ。
オススメ度★★
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Web、ゲーム、本、映画・アニメなど、感想・レビューが基本のブログ。

人間ぎらいを読んだ。
モリエールの喜劇。
なんだけど、読んで笑える、というものではなかった。
舞台になるとそれなりに面白いのかも・・
貴族の世で、
おべっかばかりで八方美人、
逆に公正一本の馬鹿正直、
その両方をほどよく兼ねた良識人。
そんな人たちのお話。
だれも彼も率直で公明正大で従順だったら、
美徳というものは、大部分無用なものになってしまうよ。
オススメ度★★
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三四郎を読んだ。
森鴎外の「青年」は、三四郎に影響を受けて書かれたらしい、ということで読んでみた。
引き込まれ方は、三四郎かな。
これが文豪のなせる技か!
という感じで読めた。(いや、鴎外も文豪だけど)
話は田舎から東京へ出てきた三四郎の身の周りの出来事だが、
「青年」よりは、小難しい話が無い分、読みやすい。
登場人物もそれぞれキャラが立っていて分かりやすい。
が、ところどころに仕掛けみたいなのがあって、
そこが深みをあたえているんだろう、とか思う。
萌えどころは小悪魔であり子羊(迷える羊)でもある美禰子。
恋になっていないけど、その前段階というか、
お互いにちょっと気になるな、みたいなところが
うまく描写されている。
そういう時期は長くないから
いかにも青春の刹那っぽくて良い。
そして、この微妙な関係の中に
「無意識の偽善者」が投じられている。
無意識の偽善者とは、ここでは無意識に別人になって行為する者ということらしい。
この場合はもちろん美禰子。
そりゃ、三四郎も翻弄されますよ・・
でも、展覧会の場面で野々宮さん(あるいは三四郎)を愚弄するシーンは、
三四郎には悪いけど、結構いい表現があるな、と思ったり。
無意識だからいいんですよね・・
意識的だったら単にいやな女ですよ。
あと、「三四郎は…」とか「美禰子は…」という表現が
突如「男は…」「女は…」という表現に切り替わる効果が面白い。
今まで三四郎視点だったのが、
一気に第三者視点で見ているような気持ちになる。
他にも表現や描写の端々に面白い所がある。
変な比較だけど、ドラクエなんかは本編と関係ない所でクスリとできる場所があって、なんとなく、それに似ていると思った。
オススメ度★★★
関連記事:
森鴎外 - 青年
夏目漱石 - それから
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青年を読んだ。(写真は岩波文庫)
教養小説と呼ばれている小説。
主に小説家志望の主人公純一の視点から、
思索や議論、女性関係、考察がつづられている。
ところどころフランス語混じりなのが読みづらい・・
それともこの程度のフランス語は必修なのかなー。
以下、夏目漱石をモデルとした登場人物が言った
「新人」あるいは「新しい人」(ニュータイプ?)
についての、純一と友人大村の議論で。
捕われるのですとも。
縄が新しくなると、当分当たりどころが違うから、
縛(いましめ)を感ぜないのだろうと、僕は思っているのです
求め、打ちたて、破壊する。
このサイクルは世代を超えて行われるのはよくあるけど、
一人で実践するツワモノもいる。
どっちがいいとかは無いと思うけど、
打ち立てたものを破壊するのは、
なかなかできることではない。
そういう意味で、新人とは言っても、
破壊的な新人というのは日本では少ないですね、
という話が展開されている。
日本の新人について、
縛られた縄を解いて行くところに、
なる程と思うところはありますが
という評価。
この辺は日本人気質か。
中庸の精神とか、繊細なバランス感覚は
確かに刺激は少ないけど、それはそれで面白い。
人の心を動かすほどに徹底するのは困難だろうけど。
ゴルディアスの結び目をほどいちゃったとか、その位を目指したい・・
オススメ度★★
関連記事:
夏目漱石 - 三四郎
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実存主義とは何かを読んだ。
実存主義に対する批判への反論、という形で語られている。
人間の本性は存在しない。
(略)
人間はみずから造るところのもの以外の何者でもない。
以上が実存主義の第一原理なのである。
人間は自由の刑に処せられている
選びたまえ。つまり創りたまえ
などなど、サルトル哲学の有名所がいろいろ。
人間は望んでこの世に出てきたわけでないのに、
存在し、常に自由であり、かつその責任は全て負わなければならない。
それが「自由の刑」。
自由であることは、同時にとても不安でもある。
自由の刑による不安を軽くするために、決まりごとを沢山作って
あたかもそれが必然であるかのようにふるまう。
(会社に行く、クレジットの支払いをする、食事をする…)
そうして自由を排除し、不安を最小限にし、
隙間があれば、自らの責任において、ルールを選択する。
その総和がその人そのものであり、自らを創るということである。
そして、自らの選択したルールに従ってできた、
いわば「役」を演じることになる。
この「役」は人間本性とは関係無いので、
簡単に置き換え可能である。
だから、映画や小説やゲームの主人公と、自分を置き換えるのは難しくない。
元々が役者なんだから、新しい舞台ができれば、
いくらでも新しいルールで自分を再構築できる。
ある程度できあがった役割を大きく変えるのはきつい。
それまでの選択が、次の選択に影響を与えるので、
容易には大きな転換ができない。
ルールで固めた役割に不安は無いが、
いささか窮屈で、思い通りにならない不満はある。
それを文字通り、新たな創造で解消することもあれば、
単に「置き換え」で満足することもある。
人は皆、選択によって、自分というものを創造している。
人は自由という刑、つまり不安を逃れるために、
創造せずにはいられない。
創造の場、事実上の現実(ヴァーチャルリアリティ)さえあれば、人は創造する。
オススメ度★★★
関連記事:
サルトル - 嘔吐
ドナルド・D・パルマー - サルトル
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人は何で生きるかを読んだ。
トルストイが作家としての名声は得た後に書いた、民話集。
僕が読んだのは古い角川のもの。
キリスト教の隣人愛を民話として伝えています。
こういう道徳的な話を子供向けの理想のお話として片付けるのではなく、
真剣に考えるものとして読む必要があるのではないかと思います。
しかも、この手のお話もトルストイにかかると、
とても読み応えのある、それでいて読みやすく、
大切なことがよく伝わる話として仕上げられています。
オススメ度★★★
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金閣寺を読んだ。
1950年、実際にあった金閣寺放火事件を元にした小説。
内容は哲学的で、「存在」についてのヒントもあったりして、個人的にタイムリー。
第一章なんか特に、現象学的というか、実存を意識した表現が多いように思えます。
自分の想う女の子を待ち伏せていて、いざ前に走り出たシーン。
そのとき、私は自分が石に化してしまったのを感じた。外界は、私の内面とは関わりなく、再び私のまわりに確乎として存在していた。
(略)
おそろしいほど完全に意味が欠けていた。
(略)
言葉がおそらくこの場を救う只一つのものだろうと、いつものように私は考えていた。
あらゆる現象は、言葉によって意味を付与されるので、
「わけの分からない状態」も、言葉によって意味付けされ
「理解できる状態」になるハズなんですね。
ところが、主人公は吃音でした。
なかなか状況を説明できずにいるところへ、女の子からのトドメ。
「何よ。へんな真似して。吃りのくせに」
キタコレ。
しかし、主人公は思います。
この声には朝風の端正さと爽やかさがあった。
我々は世界と対峙するとき、吃りである。
それをあからさまに指摘する声に
爽やかさを感じたのではないでしょうか。
とまあ、主人公は幼いころから、常に吃音を意識します。
誰しも多少そういうのはあると思うのですが、
吃音や、内翻足(後半の人物がそう)といったものは、常に人目に触れやすいため、
どうしても意識の向き方が他より強くなるんだろうと思います。
そして、常にそれが自分の中の大きな部分を占めています。
不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。
他人は忘れ去っても、自分は忘れるわけにはいかないですからね。
そして、不具が単なる不具ではなく、一つの頑固な精神であり、
確固たる「物」として存在すると言います。
不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。
実存を確信している一文。
そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生まれるものではないのか。
普通の人が自身の存在に抱く不安というのは、
自分の存在を意識させてくれるものが無い、ということです。
要するに、五体満足で何不自由無い、ということですね。
病気にならないと健康のありがたさが分からない、みたいな感じ。
以下脱線。
これを存在の不安とまで言うかどうかは別として、
現代にも自分の存在に不満を持つ人は多いのかもしれません。
大多数の中に埋もれることで、自分が
「その他大勢」になることに対する不満です。
言い換えれば、差異への欲求。
人と違うことがすなわち自分の存在理由になるわけです。
人と同じなら「別に自分がいなくてもいいじゃん」ということになりますからね。
ただ普通は差異と言っても極端なまでの差異じゃなくていい。
「人と違う」の「人」は、せいぜい知り合いの何人かであって、
その知り合いとちょっと違えばいい、くらいのものです。
その結果、例えば携帯電話が着せ替えられるとか、
ちょっとした小物のバリエーションが豊富だとかいうビジネスが
成立するんだろうと思います。
明らかに人と違う場合、その存在度は非常に高くなりますが、
違いすぎると「あってもなくても同じ」になってしまう気がします。
となると、他とのバランスの中で、最大限の差異を得ることが、
存在価値が最も高まり、ビジネス的には成功しそうです。
イノベーションというのは、
その許される範囲での「最大限の差異」なのかな。
その度合いがもう少し小さいと「ありそうでなかった」とか、
やりすぎると、「早すぎたナントカ」みたいな修飾語が付く予感。
なんか俗っぽくなってきましたが・・
以前三島作品読んだときは読みにくいと思ったのですが、
今回はテーマとか、表現とか、とても読みやすかった。
読むたびに新たな発見がありそう。
名作ですな。
オススメ度★★★★
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嘔吐を読んだ。
「存在」に関する哲学的テーマを持った小説。
主人公アントワーヌ・ロカンタンが一般市民的生活を送りながらも、(その生活から見れば)半分狂ったような思考をしているお話。
でも、ロカンタンに共感できる人も結構いる気はする。
存在については、去年の暮れごろからのテーマです。
何かについて思考するとき、その対象は「在る」ものについてであることがほとんどですが、その「在る」とは何でしょう。
この日常の違和感のようなものから始まり、「在る」ことについての発見へと至ります。
存在について考えるとき厄介なのは、
存在というものがあまりにも当然すぎて、
何を考えたらいいのか分からないということしょう。
とりあえず「存在するもの」を実感するための、とっかかりとして、
「本質は実存に先立つ」
という考え方があります。
存在しているものの中には、まず何らかの本質があって、
その後で実存(モノ)があということです。
例えば、「紙を切れる何か」「音楽を聴く何か」という本質があって、
「ハサミ」「CDプレイヤー」のようなモノが生まれている、
というのがそれです。
部屋や街を見回せば、ほとんどがそういうモノです。
逆に
「実存が本質に先立っ」ているものもありそうです。
個人的には、植物や水、動物、人間なんかが
それに当たると思うのですが、人間だけという考えもあるようです。
要するに、「二本足で歩く何か」のような本質がなく、
ただ存在ありき、で存在するものです。
例えば人間を創造した「神」が存在しなければ、
人間は本質を持たない存在ということになります。
(この辺が実存主義)
こんな感じで、世界は存在するもので満ち溢れているわけですが・・・
* * *
ロカンタンは気づきます。
全ての存在は、不条理で、余計なものであると。
存在するものは、その意味や理由を厳密に語りつくせないという意味で不条理です。
(逆に説明や理屈というものは存在しないが故に、不条理ではないと言います。
例えば点と点を結んだものが線分であるというのは、
ただ言葉で定義され、充分説明されるているだけで、
それらは存在せず、不条理ではありません。)
この辺りでライプニッツが出てくるようです。
「なぜ無でなく、何ものかが存在するのか」
存在には全て理由があり、理由がなければならないと説きます。
理由があるということは、「なぜ?」という問いに答えられるということです。
ここでは「なぜ?」の連鎖を作ることができます。
子供のときに一度はやって親を困らせ(怒らせ?)たのではないでしょうか?
「なんでこの花は赤いの」
「虫が来るようにだよ」
「なんで虫が来るようにするの」
「実をつけるためだよ」
「なんで実をつけるの」
みたいな。
で、この行き着く先は二つあって、
一つは全ての創造者「神」。
もう一つは意味の無限の遅延、あるいは循環。
後者の場合は完全に不条理です。
つまり、その不条理から逃れるために神がいるというわけです。
しかし・・
そしてたちまち一挙にして幕が裂け私は理解した。
私は<見た>。
ロカンタンは「見て」しまったんですね。
存在そのものについて、神とか、言葉とかいうレッテルを貼れなくなってしまった。
貼ろうとしても、簡単にはがれ落ちるようになってしまった。
そこで、全てのものが不条理となり、
自分の存在そのものが余計なものであることに気づいたわけです。
* * *
普通は、この事実から逃れて楽しく暮らすために、
それぞれの事柄に関連性と意味を持たせて生活を充実させます。
あるいは便利屋としての神を引き出します。
これを自己欺瞞と言います。
たぶん、買ってから一度しか使ってないものを見つめて、
「なんで、こんなもの買ったんだろう」
とか思うときが、かなり、その存在そのものに接近している時です。
そのもの自体が、ここにある必要性も必然性も全く無い。
ただ「在る」だけの不条理で余計なものです。
そして、自己欺瞞も実感しやすい。
「それを得ることで満足できた」
「今後有益になるかもしれない」
と言って、しまいこみます。
実は、自分の持ち物は全て、余計なものです。
時々持ち物を処分したい衝動にかられます。
そのものから、自分が付与した「意味」が剥がれ落ちるからです。
しかし、結局全てを捨てた後でも、
自分という存在が残ります。
こればっかりは捨てられません。
ロカンタンも自殺はしないだろう、としています。
後に残る骨すら余計なものです。
* * *
ふむ・・ようやく、分かりかけてきた。
この本はなんて不条理な、余計なものでありましょうか。
オススメ度★★★★
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