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G.H.ハーディ - ある数学者の生涯と弁明

2007/09/14

ある数学者の生涯と弁明を読んだ。

イギリスの数学者ハーディが自身の数学観を述べたエッセイ。
数学者らしく、あるいはハーディらしく、率直かつ簡潔な文章でまとめられている。
第二部として、C.P.スノーによる「ハーディの思い出」も収録されている。

興味深い話が凝縮されているが、中でも面白いのは、
数学を実在論的な見方でとらえていることだ。

確かに、1920年代に量子力学の基礎が成立してからは、
実在する物体の基本が、直感的にはつかみどころの無いものになってしまった。

それに対する数学について、ハーディは言う。

「317」は素数であるのは私たちがそう思うからでも、
私たちの心が何らかの形でそう思うようにできているからでもなくて、
それがそうだからそうなのであり、
数学的実在がそのようにできているからである。

数学は論理の積み重ねであるから、
その意味で、吟味すればするほど、はっきりと見えてくるものであり、
その存在に確信を持てるものなのだろう。

もう一つ、面白いのは、数学に有用性があるかどうかという話。
要するに、加減剰余ができれば実生活で困らないじゃん、という話なのだが、
その意味で、確かに高度な数学というのは全く有用性が無いと言う。

では、このような数学にどのような意味があるのか。

高度で純粋な数学者は、一種の芸術家である。
他の分野の芸術と同様に、創造性が求められる。

数学の歴史は、創造の歴史でもある。

数学者は、自分から創造性が失われることをはっきりと自覚でき、
それを二度と手にすることができないことを悟る点で、
悲劇的である。

そして、その瞬間は、

思いのほか早くやってくる。
それは悲しむべきことであるが、もしそうなれば、彼はどのみち重要でなくなるし、彼のことを心配することは愚かなことである。

高度な数学は、創造物という点で、
絵画や音楽、その他の芸術と同様に価値がある。

他のいかなる芸術家の仕事の価値と種類において変わらず、ただその程度において異なる価値である。

直接、人々の幸福に関わるような有用性は無いかもしれないが、
価値を創出するという点において、数学は無意味なものではない。

オススメ度★★★

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時をかける少女

2007/07/21

たぶん実写版のどれかは見てるんだけど、
今日、テレビでアニメをやってたので見た。

いいじゃんー。
まあ、話題になってたころから、よさげだなと思ってたけど、予想通り。
耳をすませばに似た雰囲気あるけど、もう少しノリがよくなった感じ。

舞台となる真夏の東京を表現するのは「もののけ姫」「火垂るの墓」など、多くのスタジオジブリ作品の美術監督を務めた山本二三。アニメーションとして最高レベルの美術が本作を支えます。

そうかー!それでなのかー!
どうりで。

最初のリープ時のピアノ、ゴルトベルク変奏曲(バッハ)にもやられた。
原作ではショパンのポロネーズらしい。
それもいいなぁ。

後は8割方青春映画として楽しんでしまった。
青春時代って、あんなふうに消費されるよね・・

ラストの真琴と千昭のシーンは
「そんな別れ方するために戻ったんじゃないだろ!」
みたいな所で終わっても味があったかも。
・・そういう話じゃないか。

千昭が戻ってきてくれる・・
そういうプラスワンシーンが人生にもあると良いのだが。

そういや、作中にシュレーディンガーの猫がいなかったかな。
どっかのワンカットで一瞬ネコが映った時、即座にシュレ猫!?と思った。
猫が箱の中にいて、ビンみたいのもあった気がした。
話が話だけにありうるし。

今回の時間軸は、過去の時間に過去の自分がいる、という同一線上のものでなくて、
その時間から再度時間が進み始める多次元世界だったなぁ、と。

(以下、個人的な備忘録)

それにしても、シュレ猫なんて誰が言い出したんだ・・
と思いつつ、ググッて復習することにした。

「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由

1年くらい前の記事だけど、今読んだら結構すっきりした。

量子は量子でいいんだね。
粒子と波を基本にして量子を考えていたから曖昧になったのかも。
とにかくミクロでは量子、と。

で、我々の存在は、記事中で言う存在蓋然性が極めて高いだけであって、
100%の存在を保証するものは何も無い。

この考えはしっくり来るな。

個人的には、時間的な持続性みたいのものが不思議だったりする。
極端な話、なぜ、昨日家族だった人が、今日も家族でいられるのか、とか。
(政治的な問題じゃないよ)

人でなくても、昨日ここに置いたものが、なぜ今日もあるのか、とか。

そういうものが全部、必ずしもあるわけではない、
単にマクロで観測しているために、一瞬一瞬、
極限まで高い濃度で存在が確定しているに過ぎないんだ、
ということが分かって安心した。

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サルトル - 実存主義とは何か

2007/03/29

実存主義とは何か
実存主義とは何か
を読んだ。

実存主義に対する批判への反論、という形で語られている。

人間の本性は存在しない。
(略)
人間はみずから造るところのもの以外の何者でもない。
以上が実存主義の第一原理なのである。

人間は自由の刑に処せられている

選びたまえ。つまり創りたまえ

などなど、サルトル哲学の有名所がいろいろ。

人間は望んでこの世に出てきたわけでないのに、
存在し、常に自由であり、かつその責任は全て負わなければならない。
それが「自由の刑」。

自由であることは、同時にとても不安でもある。

自由の刑による不安を軽くするために、決まりごとを沢山作って
あたかもそれが必然であるかのようにふるまう。
(会社に行く、クレジットの支払いをする、食事をする…)

そうして自由を排除し、不安を最小限にし、
隙間があれば、自らの責任において、ルールを選択する。

その総和がその人そのものであり、自らを創るということである。
そして、自らの選択したルールに従ってできた、
いわば「役」を演じることになる。

この「役」は人間本性とは関係無いので、
簡単に置き換え可能である。

だから、映画や小説やゲームの主人公と、自分を置き換えるのは難しくない。

元々が役者なんだから、新しい舞台ができれば、
いくらでも新しいルールで自分を再構築できる。

ある程度できあがった役割を大きく変えるのはきつい。
それまでの選択が、次の選択に影響を与えるので、
容易には大きな転換ができない。

ルールで固めた役割に不安は無いが、
いささか窮屈で、思い通りにならない不満はある。

それを文字通り、新たな創造で解消することもあれば、
単に「置き換え」で満足することもある。

人は皆、選択によって、自分というものを創造している。
人は自由という刑、つまり不安を逃れるために、
創造せずにはいられない。

創造の場、事実上の現実(ヴァーチャルリアリティ)さえあれば、人は創造する。

オススメ度★★★

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三島由紀夫 - 金閣寺

2007/03/14

金閣寺
金閣寺
を読んだ。

1950年、実際にあった金閣寺放火事件を元にした小説。

内容は哲学的で、「存在」についてのヒントもあったりして、個人的にタイムリー。

第一章なんか特に、現象学的というか、実存を意識した表現が多いように思えます。

自分の想う女の子を待ち伏せていて、いざ前に走り出たシーン。

そのとき、私は自分が石に化してしまったのを感じた。外界は、私の内面とは関わりなく、再び私のまわりに確乎として存在していた。
(略)
おそろしいほど完全に意味が欠けていた。
(略)
言葉がおそらくこの場を救う只一つのものだろうと、いつものように私は考えていた。

あらゆる現象は、言葉によって意味を付与されるので、
「わけの分からない状態」も、言葉によって意味付けされ
「理解できる状態」になるハズなんですね。

ところが、主人公は吃音でした。
なかなか状況を説明できずにいるところへ、女の子からのトドメ。

「何よ。へんな真似して。吃りのくせに」

キタコレ。
しかし、主人公は思います。

この声には朝風の端正さと爽やかさがあった。

我々は世界と対峙するとき、吃りである。
それをあからさまに指摘する声に
爽やかさを感じたのではないでしょうか。

とまあ、主人公は幼いころから、常に吃音を意識します。

誰しも多少そういうのはあると思うのですが、
吃音や、内翻足(後半の人物がそう)といったものは、常に人目に触れやすいため、
どうしても意識の向き方が他より強くなるんだろうと思います。

そして、常にそれが自分の中の大きな部分を占めています。

不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。

他人は忘れ去っても、自分は忘れるわけにはいかないですからね。
そして、不具が単なる不具ではなく、一つの頑固な精神であり、
確固たる「物」として存在すると言います。

不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。

実存を確信している一文。

そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生まれるものではないのか。

普通の人が自身の存在に抱く不安というのは、
自分の存在を意識させてくれるものが無い、ということです。

要するに、五体満足で何不自由無い、ということですね。
病気にならないと健康のありがたさが分からない、みたいな感じ。

以下脱線。

これを存在の不安とまで言うかどうかは別として、
現代にも自分の存在に不満を持つ人は多いのかもしれません。

大多数の中に埋もれることで、自分が
「その他大勢」になることに対する不満です。
言い換えれば、差異への欲求。

人と違うことがすなわち自分の存在理由になるわけです。
人と同じなら「別に自分がいなくてもいいじゃん」ということになりますからね。

ただ普通は差異と言っても極端なまでの差異じゃなくていい。
「人と違う」の「人」は、せいぜい知り合いの何人かであって、
その知り合いとちょっと違えばいい、くらいのものです。

その結果、例えば携帯電話が着せ替えられるとか、
ちょっとした小物のバリエーションが豊富だとかいうビジネスが
成立するんだろうと思います。

明らかに人と違う場合、その存在度は非常に高くなりますが、
違いすぎると「あってもなくても同じ」になってしまう気がします。

となると、他とのバランスの中で、最大限の差異を得ることが、
存在価値が最も高まり、ビジネス的には成功しそうです。

イノベーションというのは、
その許される範囲での「最大限の差異」なのかな。

その度合いがもう少し小さいと「ありそうでなかった」とか、
やりすぎると、「早すぎたナントカ」みたいな修飾語が付く予感。

なんか俗っぽくなってきましたが・・

以前三島作品読んだときは読みにくいと思ったのですが、
今回はテーマとか、表現とか、とても読みやすかった。
読むたびに新たな発見がありそう。
名作ですな。

オススメ度★★★★

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サルトル - 嘔吐

2007/03/04

嘔吐
嘔吐
を読んだ。

「存在」に関する哲学的テーマを持った小説。

主人公アントワーヌ・ロカンタンが一般市民的生活を送りながらも、(その生活から見れば)半分狂ったような思考をしているお話。
でも、ロカンタンに共感できる人も結構いる気はする。

存在については、去年の暮れごろからのテーマです。

何かについて思考するとき、その対象は「在る」ものについてであることがほとんどですが、その「在る」とは何でしょう。
この日常の違和感のようなものから始まり、「在る」ことについての発見へと至ります。

存在について考えるとき厄介なのは、
存在というものがあまりにも当然すぎて、
何を考えたらいいのか分からないということしょう。

とりあえず「存在するもの」を実感するための、とっかかりとして、
「本質は実存に先立つ」
という考え方があります。

存在しているものの中には、まず何らかの本質があって、
その後で実存(モノ)があということです。

例えば、「紙を切れる何か」「音楽を聴く何か」という本質があって、
「ハサミ」「CDプレイヤー」のようなモノが生まれている、
というのがそれです。

部屋や街を見回せば、ほとんどがそういうモノです。

逆に
「実存が本質に先立っ」ているものもありそうです。
個人的には、植物や水、動物、人間なんかが
それに当たると思うのですが、人間だけという考えもあるようです。

要するに、「二本足で歩く何か」のような本質がなく、
ただ存在ありき、で存在するものです。

例えば人間を創造した「神」が存在しなければ、
人間は本質を持たない存在ということになります。
(この辺が実存主義)

こんな感じで、世界は存在するもので満ち溢れているわけですが・・・

* * *

ロカンタンは気づきます。
全ての存在は、不条理で、余計なものであると。

存在するものは、その意味や理由を厳密に語りつくせないという意味で不条理です。

(逆に説明や理屈というものは存在しないが故に、不条理ではないと言います。
例えば点と点を結んだものが線分であるというのは、
ただ言葉で定義され、充分説明されるているだけで、
それらは存在せず、不条理ではありません。)

この辺りでライプニッツが出てくるようです。

「なぜ無でなく、何ものかが存在するのか」

存在には全て理由があり、理由がなければならないと説きます。

理由があるということは、「なぜ?」という問いに答えられるということです。

ここでは「なぜ?」の連鎖を作ることができます。
子供のときに一度はやって親を困らせ(怒らせ?)たのではないでしょうか?

「なんでこの花は赤いの」
「虫が来るようにだよ」
「なんで虫が来るようにするの」
「実をつけるためだよ」
「なんで実をつけるの」

みたいな。

で、この行き着く先は二つあって、
一つは全ての創造者「神」。
もう一つは意味の無限の遅延、あるいは循環。

後者の場合は完全に不条理です。

つまり、その不条理から逃れるために神がいるというわけです。

しかし・・

そしてたちまち一挙にして幕が裂け私は理解した。
私は<見た>。

ロカンタンは「見て」しまったんですね。

存在そのものについて、神とか、言葉とかいうレッテルを貼れなくなってしまった。
貼ろうとしても、簡単にはがれ落ちるようになってしまった。

そこで、全てのものが不条理となり、
自分の存在そのものが余計なものであることに気づいたわけです。

* * *

普通は、この事実から逃れて楽しく暮らすために、
それぞれの事柄に関連性と意味を持たせて生活を充実させます。
あるいは便利屋としての神を引き出します。

これを自己欺瞞と言います。

たぶん、買ってから一度しか使ってないものを見つめて、
「なんで、こんなもの買ったんだろう」
とか思うときが、かなり、その存在そのものに接近している時です。

そのもの自体が、ここにある必要性も必然性も全く無い。

ただ「在る」だけの不条理で余計なものです。

そして、自己欺瞞も実感しやすい。
「それを得ることで満足できた」
「今後有益になるかもしれない」
と言って、しまいこみます。

実は、自分の持ち物は全て、余計なものです。
時々持ち物を処分したい衝動にかられます。
そのものから、自分が付与した「意味」が剥がれ落ちるからです。

しかし、結局全てを捨てた後でも、
自分という存在が残ります。
こればっかりは捨てられません。

ロカンタンも自殺はしないだろう、としています。
後に残る骨すら余計なものです。

* * *

ふむ・・ようやく、分かりかけてきた。

この本はなんて不条理な、余計なものでありましょうか。

オススメ度★★★★

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ある肉まんの回想

2006/12/20

そのとき、私は本当に怖いと思いました。

もし、私の中身が肉ではなく、

あんこやピザだったとしたら・・・

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笠井潔 - 哲学者の密室

2006/12/09

哲学者の密室
哲学者の密室
を読んだ。

ミステリーと言えば、単に謎解きや、
犯人の心理に焦点を当てるものだと思っていたので、
本書のような、哲学を軸にしたものは新鮮で面白かった。

事件を現象学的に捉え、その本質を直感し、
多数成立しうる論理的推論から、
最も真実に近いものを選択していくという手法は
なんとなく知的な興奮を覚えるものではないでしょうか。

ここまで哲学的解釈が適用できて、
しかも、登場人物がその話についていける事件って
すげーって感じなのですが、まあ、そのためのお話だし・・ということで。

本書では、「自分を自分として存在させているもの」が
テーマの一つなのかなと思います。

人間を単なるモノとしての存在にとどまらないものにしてくれる何か。
それは、たとえば思想であったり、師であったり、愛する何かだったりします。

これが無くなったとき、
つまり思想が崩壊したとき、愛するものが何一つ無くなったとき・・
それは人がなんら意味を持たない、ただ「ある」というだけの存在になるということです。
あらゆる希望が奪われた強制収容所の囚人、
自分の信念が根底から覆された人間、
それは、ただ「ある」ものとしての存在です。

愛する対象を見出したときに、生まれてはじめて、ついに怖れの感情に目覚めるのだ。

これは、愛する対象を失うこと自体を怖れるのではなく、
それを失うことで、自分がただ「ある」ものでしかなくなることを怖れる、とも解釈できます。

「自分の存在可能性の中心点」を何にすべきか、
そもそも、ただ「ある」ことが何故恐怖なのか、
考えるネタがいろいろ出てきます。

オススメ度★★★★

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