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ゲームと芸術

2007/08/03

時々、ゲームは芸術たりえるか、とか考えたりする。
ゲームというのはいわゆる古典・伝統的なものではなく、
現代的な、日々量産されているビデオゲームなどだ。

この問いは切り口が多くて一度には考えつくせないと思うので、
思い出した時に考えることにしている。

ということで、たまには無駄に頭を働かせてみよう・・。
今日は「本質」という切り口で。

もし、世界の本質などというものがあるとすれば、
音楽、絵画、文学、ゲーム、
そういう概念は世界の本質の具象化だ。

ここで言う世界というのは人間を取り巻く環境そのものを指す。

そして、本質が概念に先立って存在するのであれば、
概念が本質的に不平等であるはずはない。

本質と別に概念があるというより、
本質の様々な振る舞いを概念と呼ぶほうがいいかな・・。

世界の本質を捉えたものを芸術と呼ぶなら、
あらゆる概念は芸術たる資格がありそうだ。

ところで、概念のほとんどは目的に通じ、目的は生に通じる。
目的の無いもの(それは死そのものしか無い気もするが・・)は死に通じる。

つまり、世界の本質は究極的には生と死に集約される。

となると、生と死が意識されない作品が芸術になりうるだろうか・・

ビジネスとして育ったゲームは、プレイヤーを大事にしてきた。
大事にせざるを得なかった。

プレイヤーはセーフティネットで守られる。
生と死の意識がそれだけ薄められる。

システムがプレイヤーにやさしくなればなるほど、
あるいは、システムが複雑化するほど、
意識はシステムへと流れる。

皮肉なことに、ハード環境に余裕が無かった時代のほうがより本質に近かった。

貧しい描画能力では、描く対象の本質を観察する必要があった。
要するに、表現力が乏しいなら、余分なものは全てそぎ落とす必要があるのだ。

そして、貧しい演算能力と記憶能力は、システムにも同様の要求をする。

(貧しいことは芸術にとってマイナスではないかもしれない・・)

システムへの意識が低い分、
ゲームとしては不親切だったかもしれないが、
本質により近かったという意味で、
昨今のゲームよりは芸術度が高いようにも思える。

FF12を忘れても、スペランカーは忘れないのである。

関連記事:
芸術、人間の勝利

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カテゴリ:頭の中, ゲーム

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時をかける少女

2007/07/21

たぶん実写版のどれかは見てるんだけど、
今日、テレビでアニメをやってたので見た。

いいじゃんー。
まあ、話題になってたころから、よさげだなと思ってたけど、予想通り。
耳をすませばに似た雰囲気あるけど、もう少しノリがよくなった感じ。

舞台となる真夏の東京を表現するのは「もののけ姫」「火垂るの墓」など、多くのスタジオジブリ作品の美術監督を務めた山本二三。アニメーションとして最高レベルの美術が本作を支えます。

そうかー!それでなのかー!
どうりで。

最初のリープ時のピアノ、ゴルトベルク変奏曲(バッハ)にもやられた。
原作ではショパンのポロネーズらしい。
それもいいなぁ。

後は8割方青春映画として楽しんでしまった。
青春時代って、あんなふうに消費されるよね・・

ラストの真琴と千昭のシーンは
「そんな別れ方するために戻ったんじゃないだろ!」
みたいな所で終わっても味があったかも。
・・そういう話じゃないか。

千昭が戻ってきてくれる・・
そういうプラスワンシーンが人生にもあると良いのだが。

そういや、作中にシュレーディンガーの猫がいなかったかな。
どっかのワンカットで一瞬ネコが映った時、即座にシュレ猫!?と思った。
猫が箱の中にいて、ビンみたいのもあった気がした。
話が話だけにありうるし。

今回の時間軸は、過去の時間に過去の自分がいる、という同一線上のものでなくて、
その時間から再度時間が進み始める多次元世界だったなぁ、と。

(以下、個人的な備忘録)

それにしても、シュレ猫なんて誰が言い出したんだ・・
と思いつつ、ググッて復習することにした。

「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由

1年くらい前の記事だけど、今読んだら結構すっきりした。

量子は量子でいいんだね。
粒子と波を基本にして量子を考えていたから曖昧になったのかも。
とにかくミクロでは量子、と。

で、我々の存在は、記事中で言う存在蓋然性が極めて高いだけであって、
100%の存在を保証するものは何も無い。

この考えはしっくり来るな。

個人的には、時間的な持続性みたいのものが不思議だったりする。
極端な話、なぜ、昨日家族だった人が、今日も家族でいられるのか、とか。
(政治的な問題じゃないよ)

人でなくても、昨日ここに置いたものが、なぜ今日もあるのか、とか。

そういうものが全部、必ずしもあるわけではない、
単にマクロで観測しているために、一瞬一瞬、
極限まで高い濃度で存在が確定しているに過ぎないんだ、
ということが分かって安心した。

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スタンダール - 赤と黒

2007/07/19

赤と黒を読んだ。
復古王政を批判した内容だが、出版前に七月革命が起きてしまったらしい。

単なる恋愛小説ではないので、
よりよく理解するにはさらに勉強する必要があるだろうが、
やはり物語としてはジュリアンの野望と情熱に熱いものがあるので、
まずはそこに注目。

一文あらすじ・・・
野心に燃える材木商の息子ジュリアンが、
低い身分ながら、高い才知を以って上流社会へ入り、
レーナル夫人とマチルド嬢という二人の高貴な婦人と関係を持つも、
レーナル夫人の手紙を引き金に、最後は処刑されるお話。

後に発表されるパルムの僧院では、
理性を駆使した公爵夫人と、本能の赴くままのファブリス、という対比だったが、
ジュリアンの場合、二人の婦人に対してその対比をなしているような気がする。

レーナル夫人対しては、自然に出る感情、
マチルドに対しては相手の心理を探り合う理性的な感情。

特に中盤以降のマチルド攻略(!)は圧巻。
いかに相手の上に立って支配するかという心理戦にも近い
交流が心地よいスピード感で表現される。

マチルドは「自分が愛されていないのではないか」という気持ちでいなければ、
相手を愛せない、という恵まれすぎた環境ゆえの複雑な感情を持っている。

もし、相手が自分に夢中になっていると知れば、
たちどころに相手を下に置いて軽蔑してしまうのである。

当然、ジュリアンもそれを知っているし、
知っているからこそマチルドの愛を勝ち得ることができた。

しかし、この戦略的で理性的な計算の上に成り立った愛は、
「死」という本能に働きかける現象の前では
ただわずらわしいものでしかなかった。

ジュリアンがその死に際して最も欲したのは、
野心と名誉の行き着く先でもなく、才知で得たマチルドでもなく、
その感情が求めるレーナル夫人だった。

かげろうは夏の暑いさかりに朝の九時に生れて、夕方の五時には死んでしまう。どうして夜という言葉が理解できよう?

オススメ度★★★★

関連記事:
スタンダール - パルムの僧院
アベ・プレヴォ - マノン・レスコー

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サルトル - 実存主義とは何か

2007/03/29

実存主義とは何か
実存主義とは何か
を読んだ。

実存主義に対する批判への反論、という形で語られている。

人間の本性は存在しない。
(略)
人間はみずから造るところのもの以外の何者でもない。
以上が実存主義の第一原理なのである。

人間は自由の刑に処せられている

選びたまえ。つまり創りたまえ

などなど、サルトル哲学の有名所がいろいろ。

人間は望んでこの世に出てきたわけでないのに、
存在し、常に自由であり、かつその責任は全て負わなければならない。
それが「自由の刑」。

自由であることは、同時にとても不安でもある。

自由の刑による不安を軽くするために、決まりごとを沢山作って
あたかもそれが必然であるかのようにふるまう。
(会社に行く、クレジットの支払いをする、食事をする…)

そうして自由を排除し、不安を最小限にし、
隙間があれば、自らの責任において、ルールを選択する。

その総和がその人そのものであり、自らを創るということである。
そして、自らの選択したルールに従ってできた、
いわば「役」を演じることになる。

この「役」は人間本性とは関係無いので、
簡単に置き換え可能である。

だから、映画や小説やゲームの主人公と、自分を置き換えるのは難しくない。

元々が役者なんだから、新しい舞台ができれば、
いくらでも新しいルールで自分を再構築できる。

ある程度できあがった役割を大きく変えるのはきつい。
それまでの選択が、次の選択に影響を与えるので、
容易には大きな転換ができない。

ルールで固めた役割に不安は無いが、
いささか窮屈で、思い通りにならない不満はある。

それを文字通り、新たな創造で解消することもあれば、
単に「置き換え」で満足することもある。

人は皆、選択によって、自分というものを創造している。
人は自由という刑、つまり不安を逃れるために、
創造せずにはいられない。

創造の場、事実上の現実(ヴァーチャルリアリティ)さえあれば、人は創造する。

オススメ度★★★

関連記事:
サルトル - 嘔吐
ドナルド・D・パルマー - サルトル

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三島由紀夫 - 金閣寺

2007/03/14

金閣寺
金閣寺
を読んだ。

1950年、実際にあった金閣寺放火事件を元にした小説。

内容は哲学的で、「存在」についてのヒントもあったりして、個人的にタイムリー。

第一章なんか特に、現象学的というか、実存を意識した表現が多いように思えます。

自分の想う女の子を待ち伏せていて、いざ前に走り出たシーン。

そのとき、私は自分が石に化してしまったのを感じた。外界は、私の内面とは関わりなく、再び私のまわりに確乎として存在していた。
(略)
おそろしいほど完全に意味が欠けていた。
(略)
言葉がおそらくこの場を救う只一つのものだろうと、いつものように私は考えていた。

あらゆる現象は、言葉によって意味を付与されるので、
「わけの分からない状態」も、言葉によって意味付けされ
「理解できる状態」になるハズなんですね。

ところが、主人公は吃音でした。
なかなか状況を説明できずにいるところへ、女の子からのトドメ。

「何よ。へんな真似して。吃りのくせに」

キタコレ。
しかし、主人公は思います。

この声には朝風の端正さと爽やかさがあった。

我々は世界と対峙するとき、吃りである。
それをあからさまに指摘する声に
爽やかさを感じたのではないでしょうか。

とまあ、主人公は幼いころから、常に吃音を意識します。

誰しも多少そういうのはあると思うのですが、
吃音や、内翻足(後半の人物がそう)といったものは、常に人目に触れやすいため、
どうしても意識の向き方が他より強くなるんだろうと思います。

そして、常にそれが自分の中の大きな部分を占めています。

不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。

他人は忘れ去っても、自分は忘れるわけにはいかないですからね。
そして、不具が単なる不具ではなく、一つの頑固な精神であり、
確固たる「物」として存在すると言います。

不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。

実存を確信している一文。

そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生まれるものではないのか。

普通の人が自身の存在に抱く不安というのは、
自分の存在を意識させてくれるものが無い、ということです。

要するに、五体満足で何不自由無い、ということですね。
病気にならないと健康のありがたさが分からない、みたいな感じ。

以下脱線。

これを存在の不安とまで言うかどうかは別として、
現代にも自分の存在に不満を持つ人は多いのかもしれません。

大多数の中に埋もれることで、自分が
「その他大勢」になることに対する不満です。
言い換えれば、差異への欲求。

人と違うことがすなわち自分の存在理由になるわけです。
人と同じなら「別に自分がいなくてもいいじゃん」ということになりますからね。

ただ普通は差異と言っても極端なまでの差異じゃなくていい。
「人と違う」の「人」は、せいぜい知り合いの何人かであって、
その知り合いとちょっと違えばいい、くらいのものです。

その結果、例えば携帯電話が着せ替えられるとか、
ちょっとした小物のバリエーションが豊富だとかいうビジネスが
成立するんだろうと思います。

明らかに人と違う場合、その存在度は非常に高くなりますが、
違いすぎると「あってもなくても同じ」になってしまう気がします。

となると、他とのバランスの中で、最大限の差異を得ることが、
存在価値が最も高まり、ビジネス的には成功しそうです。

イノベーションというのは、
その許される範囲での「最大限の差異」なのかな。

その度合いがもう少し小さいと「ありそうでなかった」とか、
やりすぎると、「早すぎたナントカ」みたいな修飾語が付く予感。

なんか俗っぽくなってきましたが・・

以前三島作品読んだときは読みにくいと思ったのですが、
今回はテーマとか、表現とか、とても読みやすかった。
読むたびに新たな発見がありそう。
名作ですな。

オススメ度★★★★

関連記事:
サルトル - 実存主義とは何か
ドナルド・D・パルマー - サルトル
三島由紀夫 - 潮騒

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サルトル - 嘔吐

2007/03/04

嘔吐
嘔吐
を読んだ。

「存在」に関する哲学的テーマを持った小説。

主人公アントワーヌ・ロカンタンが一般市民的生活を送りながらも、(その生活から見れば)半分狂ったような思考をしているお話。
でも、ロカンタンに共感できる人も結構いる気はする。

存在については、去年の暮れごろからのテーマです。

何かについて思考するとき、その対象は「在る」ものについてであることがほとんどですが、その「在る」とは何でしょう。
この日常の違和感のようなものから始まり、「在る」ことについての発見へと至ります。

存在について考えるとき厄介なのは、
存在というものがあまりにも当然すぎて、
何を考えたらいいのか分からないということしょう。

とりあえず「存在するもの」を実感するための、とっかかりとして、
「本質は実存に先立つ」
という考え方があります。

存在しているものの中には、まず何らかの本質があって、
その後で実存(モノ)があということです。

例えば、「紙を切れる何か」「音楽を聴く何か」という本質があって、
「ハサミ」「CDプレイヤー」のようなモノが生まれている、
というのがそれです。

部屋や街を見回せば、ほとんどがそういうモノです。

逆に
「実存が本質に先立っ」ているものもありそうです。
個人的には、植物や水、動物、人間なんかが
それに当たると思うのですが、人間だけという考えもあるようです。

要するに、「二本足で歩く何か」のような本質がなく、
ただ存在ありき、で存在するものです。

例えば人間を創造した「神」が存在しなければ、
人間は本質を持たない存在ということになります。
(この辺が実存主義)

こんな感じで、世界は存在するもので満ち溢れているわけですが・・・

* * *

ロカンタンは気づきます。
全ての存在は、不条理で、余計なものであると。

存在するものは、その意味や理由を厳密に語りつくせないという意味で不条理です。

(逆に説明や理屈というものは存在しないが故に、不条理ではないと言います。
例えば点と点を結んだものが線分であるというのは、
ただ言葉で定義され、充分説明されるているだけで、
それらは存在せず、不条理ではありません。)

この辺りでライプニッツが出てくるようです。

「なぜ無でなく、何ものかが存在するのか」

存在には全て理由があり、理由がなければならないと説きます。

理由があるということは、「なぜ?」という問いに答えられるということです。

ここでは「なぜ?」の連鎖を作ることができます。
子供のときに一度はやって親を困らせ(怒らせ?)たのではないでしょうか?

「なんでこの花は赤いの」
「虫が来るようにだよ」
「なんで虫が来るようにするの」
「実をつけるためだよ」
「なんで実をつけるの」

みたいな。

で、この行き着く先は二つあって、
一つは全ての創造者「神」。
もう一つは意味の無限の遅延、あるいは循環。

後者の場合は完全に不条理です。

つまり、その不条理から逃れるために神がいるというわけです。

しかし・・

そしてたちまち一挙にして幕が裂け私は理解した。
私は<見た>。

ロカンタンは「見て」しまったんですね。

存在そのものについて、神とか、言葉とかいうレッテルを貼れなくなってしまった。
貼ろうとしても、簡単にはがれ落ちるようになってしまった。

そこで、全てのものが不条理となり、
自分の存在そのものが余計なものであることに気づいたわけです。

* * *

普通は、この事実から逃れて楽しく暮らすために、
それぞれの事柄に関連性と意味を持たせて生活を充実させます。
あるいは便利屋としての神を引き出します。

これを自己欺瞞と言います。

たぶん、買ってから一度しか使ってないものを見つめて、
「なんで、こんなもの買ったんだろう」
とか思うときが、かなり、その存在そのものに接近している時です。

そのもの自体が、ここにある必要性も必然性も全く無い。

ただ「在る」だけの不条理で余計なものです。

そして、自己欺瞞も実感しやすい。
「それを得ることで満足できた」
「今後有益になるかもしれない」
と言って、しまいこみます。

実は、自分の持ち物は全て、余計なものです。
時々持ち物を処分したい衝動にかられます。
そのものから、自分が付与した「意味」が剥がれ落ちるからです。

しかし、結局全てを捨てた後でも、
自分という存在が残ります。
こればっかりは捨てられません。

ロカンタンも自殺はしないだろう、としています。
後に残る骨すら余計なものです。

* * *

ふむ・・ようやく、分かりかけてきた。

この本はなんて不条理な、余計なものでありましょうか。

オススメ度★★★★

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木田元 - 現象学

2007/02/09

現象学
現象学
を読んだ。

現象学素人にはレベルが高すぎたっぽい。

冒頭にあるメルロ・ポンティの紹介、
・現象学=本質の研究
・その本質を存在のうちに据えつけなおす
ということだけ押さえておこう。

あと、ふと思ったけど、
哲学というのは全ての学問・科学の根底(ベース)にあるべきで、
その「ベースである哲学」の問題を解くのに、
特定分野の学問の力を借りるって変な気がする。
仮にそうやって解かれたものはもはや哲学ではない。

例えば、
「”経験”は脳細胞が電気を交換し始めたとき云々…」
のようなとき。

むしろ「何故、脳細胞が電気交換するか」を哲学が解決しなければならないのに、
経験の哲学を語る手段として、脳細胞の電気交換を持ち出すのはまずいな、と。
この辺、自分も卒論で書いてしまったりしてるんですが(死

まあそれだけ。

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