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升田幸三 - 勝負

2009/07/19

イチかバチかのやけっぱちみたいなことをやるのを勝負師という人があるが、これは大間違いです。

将棋も人生も波乱に満ちた、破天荒な人。
升田幸三に対してはそんなイメージがあってとっつきづらかったが、本書を読んで変わった。

いや、やっぱり、波乱に満ちて破天荒なんだけれども。
ただ、想像していた以上に物事に対して真剣かつ真っ当な(というと怒られるが)まなざしを持っていると思った。

大阪新聞に連載されたものをまとめたもので、様々な話題で少しずつ区切られているので読みやすい。
もともと、若いサラリーマンを読者として意図しているようで、自分はかなりメインターゲット。

いろんなことを、将棋に置き換えるのが上手で、将棋の駒を人間(役職)に例えた話なども面白いし、
実業界の偉い人にまつわる話もいろいろあって興味深い。

どこかで聞いた、将棋は取った駒をまた使うのは捕虜虐待じゃないかというGHQの質問に反論したというのも升田幸三だった。

 むかし楠正成は川に落ちた敵兵を救い、救われた敵兵は感激して正成の部下になってともに働いた。これが日本精神だと話してやったんですよ。しかも将棋の場合、軍門に降った銀は銀として使う。捕虜の少尉を伍長に格下げして使うんなら虐待かもしれんが、あくまで少尉として一視同仁に使うんだから、ちっとも虐待じゃないと。
 それでもまだわからん顔しとったから、チェスでは王様が助かるために、女王を盾にする。女を犠牲にして王様が逃げだすが、あれはどういうわけかといったら、ずいぶん困った顔をしましたよ。

将棋というフィルターを通すことで、物事の本質を見抜いているあたり、
三冠を達した人の成せる技かと感嘆する。

 一時期、ぼくは、神の前に出てもひるまない、そういう将棋を追及した時代があるんだが、突きすすめたものは、そこにきびしさがあり、鋭さがあっても、ならべてみると、なにか楽しいものがあるもんですよ。
 文章でいえば、なるほど書いてる人は血へどが出るほど苦しんで書いてる。が、出来あがったものに、その苦しみだけしか出ていない作品は、もひとつってものじゃありませんか。
 いのちがけで書いたが、そのいのちがけのなかに遊べるという境地に達したとき、読む人にもまた楽しさが伝わる、そういうのがホンモノだろうと思います。

だから、人生はね、ぼくらが将棋から会得したナニからいうと、遊びにかえらにゃいかんのです。

読み返すたびに発見や深みが出る、そんな本じゃないかと思う。

オススメ度:★★★★

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ラース・スヴェンセン - 退屈の小さな哲学

2008/04/19

退屈の小さな哲学を読んだ。

苦痛なく苦しみ、意志なく欲し、論理なしに思考する - フェルナンド・ペソア

退屈についての歴史や考察がまとめられている。

退屈という現象がどのように現れ、それが何を意味しているか、
など興味深いことを、哲学初心者にも読みやすく書いている良作だと思う。

最後の、著者自身の退屈考察はやや説明不足な気もするけど、
退屈について、どのような考察がなされてきたかを知るヒントがつまっている。

そもそも、退屈というのは昔は贅沢なことで、
人は毎日働き続けなければ生きていけなかった。
だから、退屈できるのは、働かなくても生きていける身分の高い人たちのものだったのだ。

高慢と偏見のエリザベスの言葉

でも、まだ運がいいほうなんだわ、とにかくなにか不足があるってことは

は、貴族として、あるいは人間として、本質的なところを突いているいるように思える。

今や、多くの人が四六時中働かなくても生きていけるようになり、
退屈が一般的に生じるようになった。

いかに生活を楽をするか、それを求めて文明が発達して来た結果、
少しずつ退屈が広がり始めている。

面白いものが欲しいという人間の欲求は、
退屈を紛らせたいという欲求の裏返しかもしれない。

人間にとって興味があるのは不足しているものだけだからである

人間の行為は、「まだ見ぬ何か」を手に入れようとする行為だ。

行為が退屈を生み出しているとしたら、
退屈は、原理的に解消不可能な現象である。

今はまだ、退屈を埋められる別の現象が沢山あるように思える。
しかし、そのような現象を集めて退屈を埋めることが、
そもそも退屈で、虚しいことだと思う人達もいるだろう。

退屈しのぎを超えた行為というものはあるのか、どうか。

オススメ度★★★

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カミュ - 幸福な死

2007/11/10

幸福な死を読んだ。

メルソーが富裕な知人ザグルーを殺して金を奪いながらも、最後には幸福な死に至るという、お話。

金、時間、幸福、死というキーワードが興味深い。
いちいち納得できることが多いのだが、やはり幸福と死という概念が難しい。

とりあえず、そもそも幸福とは何かというのは、またの機会に考えることにしておいて、
金と時間、幸福への意思について考えてみる。

ぼくらは自分たちの人生をお金を稼ぐことに費やしてしまうんだ。
本当なら、お金によって時間を買わなければならないときにね。

多くの人々は生きるためにお金が必要で、
お金を得るために自分の時間を切り売りする。
そうして、生活とお金が均衡して存在するが、時間のみが消費され欠乏する。

時間が幸福へ至る条件だとすると、
このような人生に幸福は無いと考える。

なにもぼくは、お金が幸福を生み出すなんていうことを言いたいんじゃないんだ。
ただぼくは、或る階級にあっては、幸福になることは(時間が持てるという条件で)可能であり、お金を持つということは、その人をお金から解放することだと思ってる。

要するに2億円くらい持っていて、
つつましくしていれば60年くらい何もしないでいられる。

労働(で時間を消費する)という、お金の代償から解放され、
幸福へと至る条件である時間を得ることができるということだ。

そして、メルソーはザグルーの金を奪う。
それはつまり、時間を手に入れたのと同義である。

さて、お金から解放され、
膨大な(人生が終わるまでの)時間を手に入れたメルソーは、
後はひたすら幸福を求めれば良いこととなる。

時間を持つということは、経験のなかでも同時に一番素晴らしく、一番危険なことであることを彼は理解していた。

時間を持つのは素晴らしいことではあるが、
今度は時間の空虚さに耐えなければならない。
一歩間違えれば、堕落への道を転がり続けることになる。

時間があったら、あれやろう、これやろう、と思ってたのに、
いざ時間ができるとゴロゴロして過ごしてしまう、というやつだ。

かれにとってもまた、再開や、出発や、新しい生活は、それなりの魅力を持っていた。
だが幸福がそうしたことに結びつくのは、怠け者と不能者たちの精神のなかだけでしかないことをかれは知っていたのだ。

再開、出発、新しい生活は、そうした堕落から逃れる最も簡単な方法である。
いわば人生の暇つぶしができる。
しかし、それは幸福に至ることはない。

圧倒的な時間の中で幸福を見出すことができるのか。

幸福もまた長い忍耐なのだよ。

幸福は、ひとえに「幸福への意思」によって初めて見出せる。
時間の圧力に耐えられない者は「諦めの意思」によって、怠惰な幸福に甘んじる。

幸福への意思を持つことの大変さに気が付くと、
特別不幸でなければ特別幸福でなくても良いんじゃないかと思ったりする。

そして青い鳥が身近にいることを発見することにする。

童話では、ここでめでたしめでたしなのだが、実は違う。

身近に発見したはずの青い鳥はすぐに逃げていくのである。

オススメ度★★★

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インフェルト - ガロアの生涯

2007/09/08

それは明白なことじゃないでしょうか?

彼にとって、全ては明白であったに違いない。

サイモン・シンのフェルマーの最終定理で登場した数学者で、
もっとも興味を惹かれた人物、エヴァリスト・ガロアの伝記。

15歳で数学に出会い、20歳の若さで死に至る5年の間で、
数学史に名を残す業績をあげた人物である。

もっとも、彼の生涯は共和主義者としての生涯でもあり、
最期の決闘も、その政治的活動が原因であったとされる。

恐らく、端正な肖像画からは想像できないほどの
憎悪と苦悩のうちに生涯を終えたのであろう。

本書は伝記であるから、数学的な内容はそれほど多くなく、
主に、1830年ごろのフランスの様子を背景にガロアの活動と心情を描いている。
ガロアが若くして亡くなったこともあり、また生前数学者として認められることも無かったため、
信頼できる資料は少ないが、一つの人生を想像するに十分な内容となっている。

ガロアは人生を性急に歩みすぎた。
ほとんど唯一の理解者であった父を亡くしてから、
彼は自分を理解してくれる人を探していた。

そして、誰かに認められたかったのだろう。

そのことが彼の明晰で論理的な頭脳をして、彼を極端な行動に駆り立てた。
その結果、共和主義者としては、危険人物とされ、
数学者としては、狂人だと思われるに至った。

最高学府の理工科学校入学試験には二度落第し、
三度提出した数学論文は全て受け付けられなかった。
いずれも、ガロアの才能を見抜けなかった人々が下した結果だった。

政治犯として、投獄されたガロアは友人に語る。

ねえ、ぼくに何が欠けているか、わかりますか?
貴方にだけ打ち明けるんです。
それは、ぼくが、全身全霊で愛せる人なんです。

彼は、自分が愛し、そして愛される人を求めていた。
もし、そのような人がいたら、
彼の心の支えとなって、より偉大な数学者への道が開けたかもしれない。

そんな時に現れたエーヴ(ステファニー・ドゥモーテル)は、
彼にとって唯一の期待となっただろう。

しかし、彼女のためにガロアは死へ導かれることとなる。
エーヴには恋人がいたにも関わらず、ガロアが誘惑したというかどで、
恋人から決闘を申し込まれたのだ。

これは政治的危険人物とみなされたガロアに仕掛けられた罠であった。

いかがわしい浮気女の犠牲となって小生は死ぬ。
みじめなる一片の誹謗のなかに、わが人生は消えてゆく。

決闘までの13時間、ガロアはその頭に蓄積された数学の成果を遺すことに費やした。

2~3年分の思索を13時間でまとめなければならない。

証明が不完全であることを知りながら、
要となる概略を書き続ける。

ガロアが遺した原稿には今もその記述が残る。

もう時間がない

この時遺された原稿は、数少ない友人シュヴァリエや、
弟アルフレッドによって数学者たちに広められた。
それでも数学者たちがガロアの業績に気づくのにはさらに時間を要した。

しかし、死の当時、一介の共和主義者だったガロアは、
今日、群論の祖たる大数学者として知られている。

20世紀から現在の主要な数学・物理学の根底には
ガロア理論が生きているのである。

オススメ度★★★

関連記事:
サイモン・シン - フェルマーの最終定理

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ゴーリキー - どん底

2007/08/27

どん底を読んだ。

題名に偽り無く、社会的底辺にいる人々の模様を描いた作品。
ゴーリキー自身が相当な経験をしているらしい。

社会的弱者、浮浪者と、ひとくくりにはできない、
ひとりひとりの「人間」が描かれている。

本作中では結局、救いは無いわけだが、
救いとは何であるかを考えさせられる。

その中で、真実を求めるべきか否か、という話題は興味深い。

なぜまた……そんなにほんとうや真実をほしがるんだね?
……よく考えてごらん!その真実とかいうしろものは、ひょっとするとお前さんの破滅のもとかも知れないじゃないか……

一切の希望が失われてもなお真実を求める者は言う。

人に頼りもしなけりゃ、人を食いものにもしねえ人間にゃ、嘘がいったいなんの足しになる?
嘘ァ-奴隷と主人の宗教だ。……真実こそ-自由な人間の神なんだ!

嘘は他者との関係の上に成り立つ。
嘘は、真に独りでいる人間には全く無意味なのだ。

まさに独りで生きるということを知った人間が達する真理だろう。

孤独な人間は、他者との関係から切り離されているという意味で自由な人間だ。

不自由とは制限であり、制限は取り決めである。
単なる他者との取り決め、あるいは思い込み。
嘘と言ってもいいのかもしれない。
無いものをあるものとする。

一切の制限は、自分がそれを制限と信じることから始まる。

朝起きて学校に行かねばならない…そんなことは無い。
つまり「行かねばならない」というのは嘘なのだが、
自分が「行かねばならない」を信じる以上、「行かねばならない」ことになる。

制限を信じることで不自由となるが、
そこには他者とのつながりがある。

人が制限を信じるのは、制限によってつながる他者を求めるからだろうか。

人間が自由の刑に処せられているというほど自由なのであれば、
人間は本質的に孤独であるのだろうか。

真実が自由な人間の神であるならば、
真実は孤独の中で見出されるものなのだろうか。

オススメ度★★★

関連記事:
サルトル - 実存主義とは何か
トルストイ - 光あるうち光の中を歩め

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岐阜旅行、祖母のこと

2007/08/15

8/10~13で岐阜へ行ってきた。

祖父母が住んでいたので正月よく行ったが、
夏に滞在することって実はほとんど無かったことに気づいた。

黒野駅

写真は名古屋鉄道揖斐線黒野駅跡。
中部の駅百選に選定されたこともあるらしい。
家に車が無かった小学校のころは、新幹線と私鉄を乗り継いで、
最後に、ここから15分ほど歩いて祖父母の家に向かっていた。

祖父は十年近く前に亡くなったが、祖母は健在である。
とにかく元気で、恐らく、家族の誰よりも口が回っている。

思ったことをそのまま言うのだと思うが、
裏が無いので、気分の悪くなることが無い。

七十半ばにして、朝の4時半から勤めに出る。
皆が根をあげるような仕事も、真面目にこなす。
つまらぬ愚痴をこぼすわけでもない。

料理が出れば、何でもおいしいなあと言うし、
旅行の思い出話になれば、どこでもええとこやったと言う。
何気ないことにも、ありがとうと言う。

不足を語らず、足ることを知る人である。

人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。

祖母が自分が幸福だと思っているかは分からないが、
少なくとも、幸福だと知っているようには見える。

もちろん聖人のようとは言えないが、
僕の目指すべき境地に近い人だと思った。

僕にも4分の1はその血が流れているハズなのだが、なかなか難しい。

旅行で撮った写真はこちら
カメラ:RICOH Caplio R6

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古人の糟粕

2006/11/28

読書をしていた斉の桓公に扁(へん)は言った。

「その本は聖人の残りカスですね」(続き(中ほどから))

糟粕(そうはく)は嘗めてはならない。

糟は糟として、ただ自分の肥しとすれば良いのだ。

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