
金閣寺
を読んだ。
1950年、実際にあった金閣寺放火事件を元にした小説。
内容は哲学的で、「存在」についてのヒントもあったりして、個人的にタイムリー。
第一章なんか特に、現象学的というか、実存を意識した表現が多いように思えます。
自分の想う女の子を待ち伏せていて、いざ前に走り出たシーン。
そのとき、私は自分が石に化してしまったのを感じた。外界は、私の内面とは関わりなく、再び私のまわりに確乎として存在していた。
(略)
おそろしいほど完全に意味が欠けていた。
(略)
言葉がおそらくこの場を救う只一つのものだろうと、いつものように私は考えていた。
あらゆる現象は、言葉によって意味を付与されるので、
「わけの分からない状態」も、言葉によって意味付けされ
「理解できる状態」になるハズなんですね。
ところが、主人公は吃音でした。
なかなか状況を説明できずにいるところへ、女の子からのトドメ。
「何よ。へんな真似して。吃りのくせに」
キタコレ。
しかし、主人公は思います。
この声には朝風の端正さと爽やかさがあった。
我々は世界と対峙するとき、吃りである。
それをあからさまに指摘する声に
爽やかさを感じたのではないでしょうか。
とまあ、主人公は幼いころから、常に吃音を意識します。
誰しも多少そういうのはあると思うのですが、
吃音や、内翻足(後半の人物がそう)といったものは、常に人目に触れやすいため、
どうしても意識の向き方が他より強くなるんだろうと思います。
そして、常にそれが自分の中の大きな部分を占めています。
不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。
他人は忘れ去っても、自分は忘れるわけにはいかないですからね。
そして、不具が単なる不具ではなく、一つの頑固な精神であり、
確固たる「物」として存在すると言います。
不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。
実存を確信している一文。
そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生まれるものではないのか。
普通の人が自身の存在に抱く不安というのは、
自分の存在を意識させてくれるものが無い、ということです。
要するに、五体満足で何不自由無い、ということですね。
病気にならないと健康のありがたさが分からない、みたいな感じ。
以下脱線。
これを存在の不安とまで言うかどうかは別として、
現代にも自分の存在に不満を持つ人は多いのかもしれません。
大多数の中に埋もれることで、自分が
「その他大勢」になることに対する不満です。
言い換えれば、差異への欲求。
人と違うことがすなわち自分の存在理由になるわけです。
人と同じなら「別に自分がいなくてもいいじゃん」ということになりますからね。
ただ普通は差異と言っても極端なまでの差異じゃなくていい。
「人と違う」の「人」は、せいぜい知り合いの何人かであって、
その知り合いとちょっと違えばいい、くらいのものです。
その結果、例えば携帯電話が着せ替えられるとか、
ちょっとした小物のバリエーションが豊富だとかいうビジネスが
成立するんだろうと思います。
明らかに人と違う場合、その存在度は非常に高くなりますが、
違いすぎると「あってもなくても同じ」になってしまう気がします。
となると、他とのバランスの中で、最大限の差異を得ることが、
存在価値が最も高まり、ビジネス的には成功しそうです。
イノベーションというのは、
その許される範囲での「最大限の差異」なのかな。
その度合いがもう少し小さいと「ありそうでなかった」とか、
やりすぎると、「早すぎたナントカ」みたいな修飾語が付く予感。
なんか俗っぽくなってきましたが・・
以前三島作品読んだときは読みにくいと思ったのですが、
今回はテーマとか、表現とか、とても読みやすかった。
読むたびに新たな発見がありそう。
名作ですな。
オススメ度★★★★
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