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日々巡り会ったものの感想・レビュー

Month: 4月 2008

ライラの冒険 黄金の羅針盤

ライラの冒険 黄金の羅針盤を見てきた。

以下、ネタバレあり。

えーと、雰囲気ゲーならぬ、雰囲気映画ってことでOKなんだろうか。

もしかしたら、続編への伏線的なものがあるのかもしれないけど、
展開が都合よすぎるかなー、と。

いきなり現れる魔女、
いきなり現れる飛行艇乗り
いきなり現れるクマ

個人的には、そういうの嫌いではないので、楽しかったですが、
気になる人はとことん気になるかも。
それはない、みたいな。

魂が肉体に宿るように、魂が動物として具現化し、
常に自分のそばにいるという「ダイモン」のアイデアは良かった。
PABを思い出したけど、
自己との対話をビジュアル的に示せる。
続編では、そのあたりもっと深く描かれればと思う。

後は……
クマ!カッコイイヨ、クマ!

   ∩___∩
   | ノ      ヽ
  /  ●   ● | クマ──!!
  |    ( _●_)  ミ
 彡、   |∪|  、`\
/ __  ヽノ /´>  )
(___)   / (_/
 |       /
 |  /\ \
 | /    )  )
 ∪    (  \
       \_)

イオレク・バーニソン。

クマファンになった。

そんな映画。

関連記事:
神林長平 – 帝王の殻

ラース・スヴェンセン – 退屈の小さな哲学

退屈の小さな哲学を読んだ。

苦痛なく苦しみ、意志なく欲し、論理なしに思考する – フェルナンド・ペソア

退屈についての歴史や考察がまとめられている。

退屈という現象がどのように現れ、それが何を意味しているか、
など興味深いことを、哲学初心者にも読みやすく書いている良作だと思う。

最後の、著者自身の退屈考察はやや説明不足な気もするけど、
退屈について、どのような考察がなされてきたかを知るヒントがつまっている。

そもそも、退屈というのは昔は贅沢なことで、
人は毎日働き続けなければ生きていけなかった。
だから、退屈できるのは、働かなくても生きていける身分の高い人たちのものだったのだ。

高慢と偏見のエリザベスの言葉

でも、まだ運がいいほうなんだわ、とにかくなにか不足があるってことは

は、貴族として、あるいは人間として、本質的なところを突いているいるように思える。

今や、多くの人が四六時中働かなくても生きていけるようになり、
退屈が一般的に生じるようになった。

いかに生活を楽をするか、それを求めて文明が発達して来た結果、
少しずつ退屈が広がり始めている。

面白いものが欲しいという人間の欲求は、
退屈を紛らせたいという欲求の裏返しかもしれない。

人間にとって興味があるのは不足しているものだけだからである

人間の行為は、「まだ見ぬ何か」を手に入れようとする行為だ。

行為が退屈を生み出しているとしたら、
退屈は、原理的に解消不可能な現象である。

今はまだ、退屈を埋められる別の現象が沢山あるように思える。
しかし、そのような現象を集めて退屈を埋めることが、
そもそも退屈で、虚しいことだと思う人達もいるだろう。

退屈しのぎを超えた行為というものはあるのか、どうか。

オススメ度★★★

創作について

■そもそも

技巧的な作品に対して、感性的な作品、
(あるいは具象的作品に対して、抽象的作品)
という図式があるとして「感性的な作品」というのを
勘違いしてる作品があるんじゃないかと思ったので、
その原因がどこにあるのか考えてみたいと思った。

■創ること

実存主義から拝借して、2パターン。

A.本質が実存に先立つ。
B.実存が本質に先立つ。

Aの例
・はさみ
「紙を切る何か」(これが本質)→試行錯誤のうえ実体ができる

Bの例
・人間
(本質無し)→存在する

イメージ的に技巧的作品はAで、
感性的作品はBのように思える。

創作において、Bのパターンがあるかどうか、

Bにおいては、創造者がいない。
ところで、人が創作する場合、人が創造者となる。
従って、人の行う全ての創作はAである。

と考えれば、Bは無い。

■傾向

Aは、創作の行為そのものが面倒。
当然ながら、まず思考しうる本質ありきで、考え、
考えたら、それを継続して、実現させないとだめ。
途中で挫折すると、そのことをはっきり自覚できてまう。

対して、一見Bに思える、自分の感情の赴くままに創るというのは、
本質想起から実体までの距離が短いだけのA。A2とする。

「感情・気分」(これが本質)→作品

A2は、思考が無く(気分についての思考は、気分そのものではない)、
すぐ行動に移せるうえ、創造的な感じがする。
思考手順を無くす試み。

いかに純度を保ったまま形するかが難しく、
規模が大きくなるほど制作の段階で甘え紛れ込んで、
曖昧な部分を他人の解釈任せにしてしまう可能性が高い。

■つまり

創作には(イメージとして)
「すごい人が才能と努力でようやく得られる大変なもの」と、
「一歩間違えたら(?)、僕にも簡単にできるのでは」的なもの
(分かりやすいところでは前衛芸術)の2種類ある気がするけど、
本質の実体化という意味で、実際にはどの創作にも違いは無いということ。

ただ、違う種類の、プロセスが必要になるということだ。

具象的作品に必要なプロセスが、抽象的作品に無いからといって、
抽象的作品に必要なプロセスが無いわけではない。

具象的作品に必要であるところのものが、抽象的作品においては存在しない、
と思い込むところが勘違いの原因になる。

■それで

感性的な作品にも必要なプロセスがあることを確認し、
「感性的」というのを思考回避・解釈委任の免罪符に使わないように気をつけよう、と。

そんな免罪符持って何か創るくらいなら、
ギャーって言いながら外を駆け回ったほうが、
よっぽど素直な表現だし、そんな光景を見たらきっと心が動かされる。

どちらを選択するにしても、やるからには覚悟を決めてやる。
自分も時間を使うし、鑑賞するほうも時間を使うのだから、
それなら、一生懸命やったほうがいいだろうと思う。

■えーと

突っ込みどころ満載だが。
創作については難しいなー
もう、一つずつ丁寧に考えるべきことが山のようにある。
創作について考えることは人間そのものについて考えることだ。
絶対全ては分からないだろうなぁ。

色鉛筆

久しぶりに色鉛筆なるものを握ってみた。

コラボ絵

人物、リュウセイさん
背景、自分。

アナログ背景スキャンして、デジタル絵を重ねた。

※今回は、小難しいことを書こうと思ってたけど、
まとまらなくなってきてるので、
とりあえず今週はこれを載せておいて、よしとする。
来週がんばる。

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