2007 8月 - しろログ

芸術、人間の勝利

2007/08/06

先日のエントリ「ゲームと芸術」の、
本質は究極的には生と死に集約される、
というところから派生させてまた考えてみた。

なぜ、我々はファミコンに飽き足らず、次世代機を求めたのか。
なぜ、ファミコンにとどまることができなかったのか。

それは、我々が原始時代にとどまれなかったのと同様だ。

より楽に暮らしたい。苦痛から逃れたい。
そんな本能の要求に従った理性は、多くの苦痛を征服してきた。
征服できないものは隠されてきた。
生老病死は常に隠蔽の対象だ。

隠蔽は理性が本能に屈した結果だ。

征服することができず、本能にその現実を突きつけることもできない。

そうして、人間は本質を・・・生と死を覆い隠そうとする。

本能に立ち向かえない理性の弱さ、
それが人間の弱さだ。

しかし、芸術家は、本質を直視する。

本能に逆らって苦しむ。

本能に逆らうのは、ただ理性のなせる業だ。

芸術は人間に課せられた使命であり、特権である。

もしそうであれば、芸術は、崇高であり、偉大であり、あるいは滑稽である。

本質を隠しながら、本質を探そうとする。

本能が隠すものを、理性が探す。

苦しみは理性と本能の叫びだ。せめぎあいだ。

苦しみから逃れよ、と本能が叫ぶ。
本能に逆らって理性が叫ぶ。
苦しみのうちに理性が勝利し、芸術が生れる。

芸術は人間の勝利の証だ。

美は人間の内にこそある。

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ゲームと芸術

2007/08/03

時々、ゲームは芸術たりえるか、とか考えたりする。
ゲームというのはいわゆる古典・伝統的なものではなく、
現代的な、日々量産されているビデオゲームなどだ。

この問いは切り口が多くて一度には考えつくせないと思うので、
思い出した時に考えることにしている。

ということで、たまには無駄に頭を働かせてみよう・・。
今日は「本質」という切り口で。

もし、世界の本質などというものがあるとすれば、
音楽、絵画、文学、ゲーム、
そういう概念は世界の本質の具象化だ。

ここで言う世界というのは人間を取り巻く環境そのものを指す。

そして、本質が概念に先立って存在するのであれば、
概念が本質的に不平等であるはずはない。

本質と別に概念があるというより、
本質の様々な振る舞いを概念と呼ぶほうがいいかな・・。

世界の本質を捉えたものを芸術と呼ぶなら、
あらゆる概念は芸術たる資格がありそうだ。

ところで、概念のほとんどは目的に通じ、目的は生に通じる。
目的の無いもの(それは死そのものしか無い気もするが・・)は死に通じる。

つまり、世界の本質は究極的には生と死に集約される。

となると、生と死が意識されない作品が芸術になりうるだろうか・・

ビジネスとして育ったゲームは、プレイヤーを大事にしてきた。
大事にせざるを得なかった。

プレイヤーはセーフティネットで守られる。
生と死の意識がそれだけ薄められる。

システムがプレイヤーにやさしくなればなるほど、
あるいは、システムが複雑化するほど、
意識はシステムへと流れる。

皮肉なことに、ハード環境に余裕が無かった時代のほうがより本質に近かった。

貧しい描画能力では、描く対象の本質を観察する必要があった。
要するに、表現力が乏しいなら、余分なものは全てそぎ落とす必要があるのだ。

そして、貧しい演算能力と記憶能力は、システムにも同様の要求をする。

(貧しいことは芸術にとってマイナスではないかもしれない・・)

システムへの意識が低い分、
ゲームとしては不親切だったかもしれないが、
本質により近かったという意味で、
昨今のゲームよりは芸術度が高いようにも思える。

FF12を忘れても、スペランカーは忘れないのである。

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