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日々巡り会ったものの感想・レビュー

Month: 8月 2007 (page 2 of 2)

岐阜旅行、祖母のこと

8/10~13で岐阜へ行ってきた。

祖父母が住んでいたので正月よく行ったが、
夏に滞在することって実はほとんど無かったことに気づいた。

黒野駅

写真は名古屋鉄道揖斐線黒野駅跡。
中部の駅百選に選定されたこともあるらしい。
家に車が無かった小学校のころは、新幹線と私鉄を乗り継いで、
最後に、ここから15分ほど歩いて祖父母の家に向かっていた。

祖父は十年近く前に亡くなったが、祖母は健在である。
とにかく元気で、恐らく、家族の誰よりも口が回っている。

思ったことをそのまま言うのだと思うが、
裏が無いので、気分の悪くなることが無い。

七十半ばにして、朝の4時半から勤めに出る。
皆が根をあげるような仕事も、真面目にこなす。
つまらぬ愚痴をこぼすわけでもない。

料理が出れば、何でもおいしいなあと言うし、
旅行の思い出話になれば、どこでもええとこやったと言う。
何気ないことにも、ありがとうと言う。

不足を語らず、足ることを知る人である。

人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。

祖母が自分が幸福だと思っているかは分からないが、
少なくとも、幸福だと知っているようには見える。

もちろん聖人のようとは言えないが、
僕の目指すべき境地に近い人だと思った。

僕にも4分の1はその血が流れているハズなのだが、なかなか難しい。

旅行で撮った写真はこちら
カメラ:RICOH Caplio R6

ロストプラネット

ロストプラネットをクリアした。

忘れかけるが、イ・ビョンホンが主役である。
全体にセリフの英語がなんか変だけど、キャラそのものは悪くない。

主に、イ・ビョンホンが直接戦うのと、
彼がVSという機体に乗って戦う2パターンがある。

巨大なAKというモンスターに立ち向かうのは、
ワンダと巨像のようなイメージ。弱点を集中攻撃していく、というもの。

VSに乗って戦うのは、ガンダム系をやった時のような感覚。
後半になるほどいい動きができるようになってくる。

見所は以前書いた影などだが、やはり全体にレベルが高い。
各オブジェクトの描写から、エフェクト、サウンドに至るまで、
次世代機の名に恥じない作りになっている。

FPSがどうしても苦手、というわけでなければ、
Xbox買ったらまずやっておいていいのではないかと思う。

関連記事:
ロストプラネットに見る影
ワンダと巨像

芸術、人間の勝利

先日のエントリ「ゲームと芸術」の、
本質は究極的には生と死に集約される、
というところから派生させてまた考えてみた。

なぜ、我々はファミコンに飽き足らず、次世代機を求めたのか。
なぜ、ファミコンにとどまることができなかったのか。

それは、我々が原始時代にとどまれなかったのと同様だ。

より楽に暮らしたい。苦痛から逃れたい。
そんな本能の要求に従った理性は、多くの苦痛を征服してきた。
征服できないものは隠されてきた。
生老病死は常に隠蔽の対象だ。

隠蔽は理性が本能に屈した結果だ。

征服することができず、本能にその現実を突きつけることもできない。

そうして、人間は本質を・・・生と死を覆い隠そうとする。

本能に立ち向かえない理性の弱さ、
それが人間の弱さだ。

しかし、芸術家は、本質を直視する。

本能に逆らって苦しむ。

本能に逆らうのは、ただ理性のなせる業だ。

芸術は人間に課せられた使命であり、特権である。

もしそうであれば、芸術は、崇高であり、偉大であり、あるいは滑稽である。

本質を隠しながら、本質を探そうとする。

本能が隠すものを、理性が探す。

苦しみは理性と本能の叫びだ。せめぎあいだ。

苦しみから逃れよ、と本能が叫ぶ。
本能に逆らって理性が叫ぶ。
苦しみのうちに理性が勝利し、芸術が生れる。

芸術は人間の勝利の証だ。

美は人間の内にこそある。

関連記事:
ゲームと芸術

ゲームと芸術

時々、ゲームは芸術たりえるか、とか考えたりする。
ゲームというのはいわゆる古典・伝統的なものではなく、
現代的な、日々量産されているビデオゲームなどだ。

この問いは切り口が多くて一度には考えつくせないと思うので、
思い出した時に考えることにしている。

ということで、たまには無駄に頭を働かせてみよう・・。
今日は「本質」という切り口で。

もし、世界の本質などというものがあるとすれば、
音楽、絵画、文学、ゲーム、
そういう概念は世界の本質の具象化だ。

ここで言う世界というのは人間を取り巻く環境そのものを指す。

そして、本質が概念に先立って存在するのであれば、
概念が本質的に不平等であるはずはない。

本質と別に概念があるというより、
本質の様々な振る舞いを概念と呼ぶほうがいいかな・・。

世界の本質を捉えたものを芸術と呼ぶなら、
あらゆる概念は芸術たる資格がありそうだ。

ところで、概念のほとんどは目的に通じ、目的は生に通じる。
目的の無いもの(それは死そのものしか無い気もするが・・)は死に通じる。

つまり、世界の本質は究極的には生と死に集約される。

となると、生と死が意識されない作品が芸術になりうるだろうか・・

ビジネスとして育ったゲームは、プレイヤーを大事にしてきた。
大事にせざるを得なかった。

プレイヤーはセーフティネットで守られる。
生と死の意識がそれだけ薄められる。

システムがプレイヤーにやさしくなればなるほど、
あるいは、システムが複雑化するほど、
意識はシステムへと流れる。

皮肉なことに、ハード環境に余裕が無かった時代のほうがより本質に近かった。

貧しい描画能力では、描く対象の本質を観察する必要があった。
要するに、表現力が乏しいなら、余分なものは全てそぎ落とす必要があるのだ。

そして、貧しい演算能力と記憶能力は、システムにも同様の要求をする。

(貧しいことは芸術にとってマイナスではないかもしれない・・)

システムへの意識が低い分、
ゲームとしては不親切だったかもしれないが、
本質により近かったという意味で、
昨今のゲームよりは芸術度が高いようにも思える。

FF12を忘れても、スペランカーは忘れないのである。

関連記事:
芸術、人間の勝利

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