しろログ

日々巡り会ったものの感想・レビュー

Month: 1月 2006 (page 1 of 2)

小林弘忠 – 新聞報道と顔写真―写真のウソとマコト

新聞報道と顔写真
新聞報道と顔写真 写真のウソとマコト
を読んだ。

以前から気になっていたのですが、事件などが起こるたびに、被害者の顔写真などが掲載されているのを見て、遺族の方って本当に載せたくて載せているのかなと思っていた所に、この本があったので借りてみました。

本書では、新聞における写真の役割の変遷などが書かれています。
新聞「記事」の歴史などに関する文は多いのですが、この本は特に写真に焦点を絞っているのが特徴です。

さて、冒頭の疑問ですが、やはり以前は「ガン首集め」という呼び方があったように、人の首の写真を各新聞社が競争するごとく集めていた時期があったようです。
その中には
・警察クラブを名乗り、警察関係者であるように思わせて写真を拝借
・遺族が気づかない間に遺影を拝借
・他社に取られないよう、その家にある写真は全て拝借
など、半分盗むようにして遺族から得た写真もあると言います。

やはり全ての被害者が望んで提供したわけではないことが分かります。

* * *

本文中で引用されている1854年のキルケゴールの警句

誰でも肖像写真を撮ってもらえるようになるだろう ? 以前は著名人だけであったが。しかも同時に、われわれが皆そっくり同じ顔をしているように見せるべく事が運ばれている ? 故にわれわれの肖像写真は一枚あればよいということになるだろう

は、この問題を別の観点から指摘しています。

つまり、新聞の顔写真は、もはや真実を知るための写真ではないということです。

実際、紙面を作る際、顔写真は選別され、ことによると見やすいように修正されていると言います。

これは情報発信者が自分の意思を伝えるための道具にしているに過ぎない、という見方もできます。
新聞やニュースが客観的であることは決してありません。

凶悪な事件が起こったとき必要なのは、本当の被害者・加害者の写真ではなく、
「哀れで同情すべき」被害者像と、「憎むべき」加害者像なのです。

その感情を読者にかきたてさせるための手段が顔写真というわけです。

従って、発信側も読者側も、被害者・加害者を個の被害者・加害者ではなく、被害者一般・加害者一般で見ることになります。
これがキルケゴールの言う「われわれの肖像写真は一枚あればよいということになるだろう」に通じているのではないでしょうか。

発信側・読者側も、顔写真を(無意識であれ)「被害者一般」として見るのであれば、事件に関わった一人の人間の尊厳を貶める行為ということになります。

* * *

それでも犯罪の報道は、今この社会で何が起きているのか、そして自分達一人ひとりが何をしなればならないのかを考えさせるという意味では、必要なものです。

しかし被害者や加害者が匿名で、かつ写真も無ければ、記事はどうしても事務的なものになってしまうでしょうから、難しいものですね。

オススメ度★★

「好きなこと」を仕事にすべきか – 美について

美しいものに感動する機会がもっとあってもいいんじゃないかと思って考えてみました。

特に小学校では、実学としての英会話や株式投資やパソコンなんて教えていないで、美しいものを感じる心を育てることが必要だと思います。

もしかすると「好きなこと」ではなく、「美しいと思うもの」を職業に選ぶとうまくいくのではないかと思ったからです。

例えば、

一面に広がる小麦畑が何よりも美しいと感じたら、小麦農家。

株価チャートがこの世の美の極みだと思ったら、証券アナリストやトレーダー。

非の打ち所の無い論法こそ、と思ったら弁護士。

E=mc2で卒倒しそうになったら数学・物理学者・・・

などなど。

もちろん、たいていの人が思う「ああ、美しいな」程度ではなく、「こんなに美しいのに何故理解されないんだ」とか「他の人が感じている以上に美しいと思ってる」くらいが前提ですが。

私の恩師の一人は「かわいいものは所有したくなる。美しいものは生み出したくなる」とおっしゃっていました。
かわいいものは所有できれば満足なのですが、美しいものは生み出せないと満足いかないということです。

単に「好き」というのでは「かわいい」と感情的に同レベルであり、どんなに好きなものでも所有できてしまうと、そこで終わってしまいます。

しかし、「美しい」は生み出さなくては満足できませんので、なんとか生み出そうとします。
しかし、大抵はうまくいきません。
小麦は枯れるし、株は大損。口げんかにも勝てないし、ピタゴラスの定理も証明できないかもしれません。
それでも、美を感じる心がある限り、生み出したいという欲求は持続し、何度失敗しても再び挑戦できます。

そして、この生み出したいという欲求は、美を感じる感性が強ければ強いほど、高まっていくのではないかと思います。
およそ一流と呼ばれる人は、この美的感性が鋭く、強いのではないでしょうか。
つまり美を感じる心があればこそ、常に向上心を持つことができ、とんでもない偉業を成し遂げることができるのではないかと思うのです。

好きなことは仕事ではなく趣味にしろ、というのは正しいのかもしれません。
趣味は所有・習得してニコニコしていれば良いですが、仕事には向上心が必要です。

* * *

そういうわけで、学校では是非、美を中心に授業をしてみたらどうかと思います。
もちろん、毎日美術の時間を設けて、絵画を鑑賞させろ、というのではありません。
あらゆる教科で、その美しさを説くのです。

例えば、嫌われる傾向にある数学や物理などは、特に美しさを説くべきだと思いますし、また説きやすい教科だと思います。
「数学とか、+-×÷だけありゃ、実際困らなくね?」とよく言われますが、これは数学で美しさが教えられていない証拠です。

問題集も、ただパターンを暗記するためのものではなくて、その美しさを実感できるものであるべきです。

もちろん、それでも皆が同じように数学が美しいと思えるわけではありません。それは当然です。
だから全ての教科で行う必要があると思うのです。
もし、義務教育を終えた段階で、美しいと思えるものが無かったら、無理に普通科高校に進学するのではなく、別の道へ美を求めても良いと思います。

さらに付加価値として、このように美しいものに対する感性が鋭くなっていると、社会全体がより良いものになると思います。
例えば、ゴミやタバコのポイ捨ては減るでしょうし、人を騙すような犯罪も減りそうです。
(まあ、この辺は道徳教育の役割も大きいでしょう・・)

いずれにしろ、美に対する感性を磨くのは自分の人生にとってプラスになるのは間違いないと思います。

「考える」をさぼらない

以前、「あまり本を読まないという学生に本を紹介する」という番組を見ましたが、その学生の一人に本のあらすじを紹介したところ、
「(本の主人公は)なぜ、そんなことをしたの?」
「どうしてそうなの?」
という質問をしていました。

疑問を立てることは重要なことですが、その解をすぐ求めようとするのは、現代教育の悪しき成果なのかもしれません。

大学入試でも、ほとんどマークシートだったりするところもあります。
既に答えが示されていて「この中から選びなさい」ということです。

つまり、答えはそこにあるものだと思っているので、
(紹介する人がいれば、その人は当然答えを知っているのだろうと思い)
「どうして?」と聞いてしまう。

「考える」という過程が無いか、短いように思えるのです。

* * *

おおげさかもしれませんが、人間、何をさぼっても、決してさぼってはならないのは「考える」ことだと思います。

考えることは疲れます。

言葉には出さなくても、それをしゃべるのと同じくらいの労力が必要なのではないかと思うほどです。

まして、考えることに終着点はありませんので、続けようと思えば、いくらでも続けられます。

それでも、誰もいない部屋で一人延々と考えることは、必要なことだと思うのです。

考えることに対して忍耐力が無いと、即座に判断しかねる問題に直面したとき、恐らく誰かに決めてほしくなります。

面倒なことは、白か黒かで提示してほしいと思うようになります。

* * *

改革を続けるのか続けないのか、郵政民営化するのかしないのか。
問題を単純化して訴えた自民党は圧勝しました。

別に自民党を批判するつもりはありません。
見事な戦略です。

ただ、投票した人が、自民党に票を入れた際、それは考えたうえでのことなのか、
それとも、考えることを怠け、提示された二択から選択したのか。
それが重要な所だと思います。

その「考える」ために有用なのが本だと思いますが、そもそも考えることを知らないか、苦痛な人にとって、本に興味を示さないのは当然かもしれません。

「考える」を前提として持っていないと、ちょっとでも抽象的な表現や、寓話が出てくると「わけわかんない」になってしまいます。

しかし、「わけわかんない」のは恐らく全ての人がそうなのだと思います。
時には作者でさえもそうだったりするかもしれません。
その先はもう、考えるか考えないかしかないと思います。

考えた結果が正しいとか、間違っているとか、そんなのは必要ありません。

後になって、あの時の考えは正しかったとか、やっぱり間違いだったかも、と思うことはありますが、いずれにしろ「考える」力は確実についていくと思います。

藤原正彦 – 国家の品格

国家の品格
国家の品格
を読んだ。

タイトルのわりに、読みやすい本です。
冒頭に「半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷」という一節がありますが、まあ、そうかも、という内容(笑)
ある意味煽っているような内容です。

ただ、あらゆる本がそうであるように、考えるきっかけと、指標を与えてくれるのは確かです。

そもそも本にズバリ解が書いてあることは、まれなことだと思いますが。
(このことについて書いてたら長くなりそうだったので、この次に…)

今回は、道徳について考えてみました。

最近日本でも凶悪犯罪などが増えてきて、なんか変だなと思っている方も多いと思いますが、その理由の一つは、理論が蔓延し始めてきたことだと述べられています。
理論は科学や学問などの分野では非常に有用ですが、その範囲を超えて広がってきているようです。
その結果、強者が弱者を淘汰するのは当たり前となり、勝ち組・負け組という言葉を平気で使えるようになってきたのでしょう。

理論を横行させると何故良くないのかといえば、理論が完全でない上、人間も理論通りには動かないからです。

もし人間が理論に従い、合理的な判断を下せるとしたら、バブルは起こりませんし、振り込め詐欺にも引っかかりません。もちろん戦争も起きません。
しかし、世界で初めて会社ができたころから何度もバブルは起きていますし、振り込め詐欺の被害は何億円にものぼっています。地球で争いが無い日はありません。

どんなに美しい理論があっても、人間は決して理論通りにはいかないのです。

そう考えると、よく「日本は民主主義だから」「イラクを民主国家に」などと、平和・安全・平等の代名詞のように言われる「民主主義」には何の保障も無いことが分かります。

国の代表や方向性を選ぶ国民が、誤った考えを持てば、国は簡単に誤った方向に進むということです。
ヒトラー政権しかり、イラク戦争しかり、です。

人間は理論だけではダメです。

さて、そこでどうすれば良いのか、ですが、本書では、武士道を初めとする、日本固有の道徳観などを教えよとあります。

道徳は理論ではありませんから「なぜそうするのか」などは教えません。
弱い者を大勢でいじめるのは悪いことなのです。
人を殺すなどもってのほかです。
理由はありません。

…どうでしょう?

これが納得できない人は既に理論の影に飲み込まれ始めています。
全ては理論的であるべきだ、という理論万能な考え方に囚われているのです。

逆に言えば、理論的に正しいように思えることは簡単に信じてしまいます。
そして信じた理論が破綻した時、もう八方塞で絶望し、何のやる気もしなくなってしまうでしょう。
万能だったはずの理論が破綻すれば、他によりどころとなるものが無いからです。

日本そのものが理論の影に飲まれようとしている今、このようなことを叫ぶのは勇気のいることです。

何故なら理論的に説明できないことを叫ぶのは、私は頭が悪いと言っているように聞かれてしまうかもしれないからです。

しかし、道徳を捨て理論に走った結果、例えば、いじめは耐えなくなってしまいました。

「弱い者を大勢でいじめるのは良くない」
「なぜか」
「卑怯だから」
「なぜ卑怯なのは良くないのか」
「・・・・」

ここで言葉に詰まる人は多いと思います。
それは、理論的な答えを探そうとするからです。
道徳を知っている人なら「良くないものは良くないからだ」と言うでしょう。

神を知っている人なら「神はおっしゃった」となります。
これが神の正しい使い方だと思います。
戦争の理由に使うことなど、あってはならない。

私の高校の教師は、
「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対し、
「法律で決まっているからです」と答えました。
これではいけません。

法律に無いことは何をしても良い、ということになってしまいます。

子供であれば、子供にとっての法律・・つまり、親の目・他人の目に触れなければ万引きしてもいい、と考えてしまいます。

人間と理論が万能でない以上、ダメなものはダメ、お天道様が見ている、といった、いわば非論理的な道徳教育は絶対に必要なものだと思います。

本書は、それを再確認できるものとなりました。

オススメ度★★

ICO

ICO
ICO
(PS2)をクリアした。

去年はあまりゲームもしなかったのですが、単にエンターテインメント・暇つぶしというだけでなく、発想の手助けになることもあるのではないかと考え、今年はもうちょっと積極的にゲームに触れようかなと思います。

というわけで、今年のクリア第一弾ICOです。
2001年発売ですので、もう5年目になるんですね。
今はBestで出ていますので安いです。1800円。
(ちなみにAmazonで初版(?)の未開封が75,000円で出てました・・)

買った理由は「手をつなぐ」という珍しいアクションがあったから、というだけなんですが、出会えて良かったと思える作品です。

水やフォグの表現など、映像技術的には既に完成の域に達していますし、キャラクターの細かい動作も面白い。
(意外にもモーションキャップチャーではなく、ハンドメイドだそうです)
操作パターンもシンプルで直感的です。
ロード時間も短くストレスになりません。
特定言語に依存しないなど、世界観もよく統一されています。

BGMが無く、鳥のさえずりや水の音などしか聞こえないのもいいですね。
謎解きモノでBGMあると耳に残って仕方が無いので・・

プレイ時間は10時間ほど。終わってみれば、ちょっと短い気もしますが、コンパクトにまとまってていいのかな。
足りないくらいがちょうどいい、というか。

って、ベタ褒めですが。

公式サイトのインタビューによると、海外で49万本、日本で16万本売れたようです。
(日本の皆さん、もったいないですよ(笑))

そこで面白かったのは、日本と海外で評価の観点が違うということです。

日本では、儚さや切なさといった雰囲気に評価が高いのに対し、
海外ではそれプラス、ゲームの革新性が評価されたと言っています。

ここで「それ(雰囲気)プラス」と言っていますが、日本と海外では恐らく違う性質のものです。
つまり海外でいう雰囲気とはatmosphere(空気感)であって、光の効果が美しい、とか鳥のさえずりが効果的といった、あくまでもゲームのオーディオ・ビジュアル効果としての雰囲気である、と。

しかし、日本で評価された雰囲気というのは日本人が昔から持っている「もののあはれ」的な部分があるハズだと思っています。
かつて栄えていたであろう城の廃墟と、今も変わらず広がる広大な海や森、太陽といった自然との対比の中に感じるものがそれです。

少なくとも自分はこの作品で「もののあはれ」を感じました。
そこが最も好きだったりするのですが、英語ではこれに対応する言葉はなく、理解されにくいようです。

従って、海外ではやはり、ゲームの革新性が主に評価された点になると思うのですが、
それは例えば、ゲーム特有の数値パラメータや、派手な攻撃エフェクトを用いないことで、生身の人間を感じてもらう(=プレイヤーとイコを同期させる)手法などでしょう。

普通の人間よりは多少強いと言っても、やはり高いところから落ちれば死んでしまうわけで、高い壁を伝ったり、垂れ紐にぶら下がったり、手すりの無い橋の上を移動したりする時は、普通のゲーム以上にスリルがあったと思います。

このような不要な演出を極力排除し、対象を浮き彫りにする、といった引き算の手法は参考にしたい所です。

何はともあれ、いいゲームスタートが切れました。

◆リンク
ICO 公式サイト(音注意)ペーパークラフトとかあります(笑)
海外サイトではmp3もあるようです。
宮部みゆきさんによる小説もあります。

関連記事:
ワンダと巨像

Older posts

© 2017 しろログ

Theme by Anders NorenUp ↑