頭の中 - しろログ

創作について

2008/04/12

■そもそも

技巧的な作品に対して、感性的な作品、
(あるいは具象的作品に対して、抽象的作品)
という図式があるとして「感性的な作品」というのを
勘違いしてる作品があるんじゃないかと思ったので、
その原因がどこにあるのか考えてみたいと思った。

■創ること

実存主義から拝借して、2パターン。

A.本質が実存に先立つ。
B.実存が本質に先立つ。

Aの例
・はさみ
「紙を切る何か」(これが本質)→試行錯誤のうえ実体ができる

Bの例
・人間
(本質無し)→存在する

イメージ的に技巧的作品はAで、
感性的作品はBのように思える。

創作において、Bのパターンがあるかどうか、

Bにおいては、創造者がいない。
ところで、人が創作する場合、人が創造者となる。
従って、人の行う全ての創作はAである。

と考えれば、Bは無い。

■傾向

Aは、創作の行為そのものが面倒。
当然ながら、まず思考しうる本質ありきで、考え、
考えたら、それを継続して、実現させないとだめ。
途中で挫折すると、そのことをはっきり自覚できてまう。

対して、一見Bに思える、自分の感情の赴くままに創るというのは、
本質想起から実体までの距離が短いだけのA。A2とする。

「感情・気分」(これが本質)→作品

A2は、思考が無く(気分についての思考は、気分そのものではない)、
すぐ行動に移せるうえ、創造的な感じがする。
思考手順を無くす試み。

いかに純度を保ったまま形するかが難しく、
規模が大きくなるほど制作の段階で甘え紛れ込んで、
曖昧な部分を他人の解釈任せにしてしまう可能性が高い。

■つまり

創作には(イメージとして)
「すごい人が才能と努力でようやく得られる大変なもの」と、
「一歩間違えたら(?)、僕にも簡単にできるのでは」的なもの
(分かりやすいところでは前衛芸術)の2種類ある気がするけど、
本質の実体化という意味で、実際にはどの創作にも違いは無いということ。

ただ、違う種類の、プロセスが必要になるということだ。

具象的作品に必要なプロセスが、抽象的作品に無いからといって、
抽象的作品に必要なプロセスが無いわけではない。

具象的作品に必要であるところのものが、抽象的作品においては存在しない、
と思い込むところが勘違いの原因になる。

■それで

感性的な作品にも必要なプロセスがあることを確認し、
「感性的」というのを思考回避・解釈委任の免罪符に使わないように気をつけよう、と。

そんな免罪符持って何か創るくらいなら、
ギャーって言いながら外を駆け回ったほうが、
よっぽど素直な表現だし、そんな光景を見たらきっと心が動かされる。

どちらを選択するにしても、やるからには覚悟を決めてやる。
自分も時間を使うし、鑑賞するほうも時間を使うのだから、
それなら、一生懸命やったほうがいいだろうと思う。

■えーと

突っ込みどころ満載だが。
創作については難しいなー
もう、一つずつ丁寧に考えるべきことが山のようにある。
創作について考えることは人間そのものについて考えることだ。
絶対全ては分からないだろうなぁ。

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芸術、人間の勝利

2007/08/06

先日のエントリ「ゲームと芸術」の、
本質は究極的には生と死に集約される、
というところから派生させてまた考えてみた。

なぜ、我々はファミコンに飽き足らず、次世代機を求めたのか。
なぜ、ファミコンにとどまることができなかったのか。

それは、我々が原始時代にとどまれなかったのと同様だ。

より楽に暮らしたい。苦痛から逃れたい。
そんな本能の要求に従った理性は、多くの苦痛を征服してきた。
征服できないものは隠されてきた。
生老病死は常に隠蔽の対象だ。

隠蔽は理性が本能に屈した結果だ。

征服することができず、本能にその現実を突きつけることもできない。

そうして、人間は本質を・・・生と死を覆い隠そうとする。

本能に立ち向かえない理性の弱さ、
それが人間の弱さだ。

しかし、芸術家は、本質を直視する。

本能に逆らって苦しむ。

本能に逆らうのは、ただ理性のなせる業だ。

芸術は人間に課せられた使命であり、特権である。

もしそうであれば、芸術は、崇高であり、偉大であり、あるいは滑稽である。

本質を隠しながら、本質を探そうとする。

本能が隠すものを、理性が探す。

苦しみは理性と本能の叫びだ。せめぎあいだ。

苦しみから逃れよ、と本能が叫ぶ。
本能に逆らって理性が叫ぶ。
苦しみのうちに理性が勝利し、芸術が生れる。

芸術は人間の勝利の証だ。

美は人間の内にこそある。

関連記事:
ゲームと芸術

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ゲームと芸術

2007/08/03

時々、ゲームは芸術たりえるか、とか考えたりする。
ゲームというのはいわゆる古典・伝統的なものではなく、
現代的な、日々量産されているビデオゲームなどだ。

この問いは切り口が多くて一度には考えつくせないと思うので、
思い出した時に考えることにしている。

ということで、たまには無駄に頭を働かせてみよう・・。
今日は「本質」という切り口で。

もし、世界の本質などというものがあるとすれば、
音楽、絵画、文学、ゲーム、
そういう概念は世界の本質の具象化だ。

ここで言う世界というのは人間を取り巻く環境そのものを指す。

そして、本質が概念に先立って存在するのであれば、
概念が本質的に不平等であるはずはない。

本質と別に概念があるというより、
本質の様々な振る舞いを概念と呼ぶほうがいいかな・・。

世界の本質を捉えたものを芸術と呼ぶなら、
あらゆる概念は芸術たる資格がありそうだ。

ところで、概念のほとんどは目的に通じ、目的は生に通じる。
目的の無いもの(それは死そのものしか無い気もするが・・)は死に通じる。

つまり、世界の本質は究極的には生と死に集約される。

となると、生と死が意識されない作品が芸術になりうるだろうか・・

ビジネスとして育ったゲームは、プレイヤーを大事にしてきた。
大事にせざるを得なかった。

プレイヤーはセーフティネットで守られる。
生と死の意識がそれだけ薄められる。

システムがプレイヤーにやさしくなればなるほど、
あるいは、システムが複雑化するほど、
意識はシステムへと流れる。

皮肉なことに、ハード環境に余裕が無かった時代のほうがより本質に近かった。

貧しい描画能力では、描く対象の本質を観察する必要があった。
要するに、表現力が乏しいなら、余分なものは全てそぎ落とす必要があるのだ。

そして、貧しい演算能力と記憶能力は、システムにも同様の要求をする。

(貧しいことは芸術にとってマイナスではないかもしれない・・)

システムへの意識が低い分、
ゲームとしては不親切だったかもしれないが、
本質により近かったという意味で、
昨今のゲームよりは芸術度が高いようにも思える。

FF12を忘れても、スペランカーは忘れないのである。

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芸術、人間の勝利

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存在の恐怖

2006/12/17

先日の哲学者の密室を読んで思った、
「ただ「ある」ことが何故恐怖なのか」について、またちょっと考えてみた。

ただ「ある」というのは、どういうことか。
それは、あらゆる事柄との関係が全く無い状態、
つまり、絶対的な孤独であるように思える。

他との関係が全く無いのだから、
孤独というよりは、無に近い。
何によって自分が自分たらしめられているのか、というと、
実は外との関係によっていることが多い。

例えば、音楽が好き、という自分は、「音楽」との関係によって成り立つ。
自分は足が速い、というのも「比較する対象」との関係によって成り立つ。
あらゆる行動や、性格のほとんどは、他者との関係による。

そうした関係が極限まで絶たれると、
まさに「存在」だけが浮き彫りになる。

しかし、その「存在」は他者との関係のうちには無いのだから、
あっても無くても同じ、「無」の「存在(ある)」であり、
それが怖いと感じるのではないだろうか。

・・うーん、なんか違いそうだな・・・
あまり怖さを感じない。

あらゆる関係が無くなっても、
相変わらず腹はへるだろうし、夜になれば眠くもなる。
それは存在そのものでも、無でもない。

もう少し考えよ。

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ブログノススメ

2006/04/02

私がブログを書く理由とか、「ブログノススメ」みたいのを書こうかなと思いながらキッカケが無かったのですが、
中島さんがブログを書く理由を書いていましたので、
ここらで整理して書いてみようと思います。

中島さんの記事では、梅田卓夫さんの本から
1. 自分にしか書けないことを
2. だれにでもわかるように書く
が引用されています。

これは「よい文章」の条件とのことですが、これらがすなわち充実感につながり、楽しいことであるから、ブログを書くというわけです。

この二つが両立している所には価値が生まれます。
実際中島さんのブログは、そのようなブログとなっていますが、これはなかなか難しいものです。

大抵は、
1. だれにでも書けることを
2. だれにでもわかるように書いている
とか、
1. 自分にしか書けないことを
2. だれにもわからないように書いている
とか、
1. だれにでも書けることを
2. だれにもわからないように書いている
などのパターンに陥ってしまいがちのような気もします。
私の場合も、2番目3番目のパターンがかなり多いと思います。

しかし、それが全く無意味かというと、そうではないと思っています。
私がブログを書く理由はここにあるのですが、
それは
「自分の頭の中にINPUTされた事柄を、自分なりのフィルターを通してOUTPUTしてみるため」
です。

重要なのは、OUTPUTする訓練ができるということです。

# 訓練なんていうと、疲れそうなので、
# そこは「遊び」とか「ゲーム」などに置き換えてもいいかもしれません。

そのOUTPUTが、他の人に理解してもらえれば、それは充実感につながります。

個人の日記でも、その訓練はできますが、
ブログは他人の目に触れるという特徴があります。

その特徴をどう生かせるかは、人それぞれだと思いますが、例えば
・人に理解してもらえるようなOUTPUTを意識できるようになる
・人からのコメントで、新たな発見ができるようになる
・やる気が持続する
などがあります。

そのようにして出たOUTPUTは再び自分のフィルターを進化させたり、変化させたりして、
あらゆるINPUTに対して、より高いレベルのOUTPUTを作り出せるように思います。

自分で何か作りたいというクリエティブな方には、ブログはオススメです。
もちろん、文章でなくても、何か作品を作って写真でアップする、とか
音楽や朗読を録音してアップするというのもOUTPUTですから、
もしブログを始められる環境があるのであれば、やってみて損は無いと思います。

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シンプルに攻める - 初心者と達人の狭間で

2006/02/15

今では、インターネットという言葉を知らない人はだいぶ減ってきたようですが、
では実際「webサイトとは」と問われた時にいくつかサイトが思い浮かぶ人は
実はそれほど多くないのではないかと思います。

そんな中、UI革命やweb2.0現象が広まってしまうのは、いかにこの業界の変化スピードが早いかを物語っています。
ネットに慣れていない人が慣れる前に、AjaxやDHTMLによるUI革命が起きているわけです。

この革命は「慣れていない人でも、簡単に使えるようになった」という類の革命というよりは、既存のハイパーリンクに飽きてしまった人のための革命という気がします。

実際、web2.0と言って、もてはやされるサービスには、面白いと思う反面、
自分の親が(場合によっては友人でさえも)理解できるのかどうか疑問に思うものがあります。

それでは、懇切丁寧なサイトが良いのかと言うと、一概にそうではありません。

誰にでも経験のあることだと思いますが、親切はおせっかいになることもあります。


青い下線のある所は、マウスのカーソル(矢印)をそこに合わせて、マウスの左ボタンをクリック(押す)と、それに関する別のページが表示されます。

などと、全てのページに書いてあっても、助かるのは最初の一回だけで、後は無用の長物なわけです。

* * *

それでは、初めてでも分かりやすく、慣れても飽きがこないものは何か、という話になるのですが、
これは、やはり「シンプルなもの」ではないかと思うのです。

結局、使う人はあらゆる思想や、目的の背景を持って来るのですから、
それに対応するには、できる限りシンプルに、
あらゆる解釈に耐えうる作りにしておくことが必要ではないでしょうか。

例えば、丸い物体でも、白と黒で六角形と五角形の模様が付いていれば、
もうほとんどサッカーボールでしかないのですが、
そのまま置いておけば、リンゴかもしれないし、惑星かもしれないわけです。

もし、その丸い物体を、色んな人に見てもらいたいなら、
下手に装飾して、一部のサッカーファンしか集まらないよりも、
そのままを置いて、食べ物好きや、天体学者も集まってくれたほうが良いわけです。

「シンプル」というのは何も、画像使うな、とか、
リンクは下線付きの青文字だけにしろ、という意味ではありません。

自分の提供したいものを、余計な装飾や親切を省いて提供しましょうということです。

先の例で言えば、サッカーファンを集めたいなら、やはり白と黒の装飾は重要なわけです。

しかし、必要以上の装飾をすると、初心者のユーザーには説明しなくてはならないし、
慣れたユーザーにとってはジャマなものになってしまうのです。

では、何をもってシンプルさを磨くのか。

それはもう自分が何をしたいのか、という「目的」。
そして、それを誰が見るのか、使うのか、という「対象」。
この二つを明確にしていくことではないでしょうか。

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「好きなこと」を仕事にすべきか - 美について

2006/01/21

美しいものに感動する機会がもっとあってもいいんじゃないかと思って考えてみました。

特に小学校では、実学としての英会話や株式投資やパソコンなんて教えていないで、美しいものを感じる心を育てることが必要だと思います。

もしかすると「好きなこと」ではなく、「美しいと思うもの」を職業に選ぶとうまくいくのではないかと思ったからです。

例えば、

一面に広がる小麦畑が何よりも美しいと感じたら、小麦農家。

株価チャートがこの世の美の極みだと思ったら、証券アナリストやトレーダー。

非の打ち所の無い論法こそ、と思ったら弁護士。

E=mc2で卒倒しそうになったら数学・物理学者・・・

などなど。

もちろん、たいていの人が思う「ああ、美しいな」程度ではなく、「こんなに美しいのに何故理解されないんだ」とか「他の人が感じている以上に美しいと思ってる」くらいが前提ですが。

私の恩師の一人は「かわいいものは所有したくなる。美しいものは生み出したくなる」とおっしゃっていました。
かわいいものは所有できれば満足なのですが、美しいものは生み出せないと満足いかないということです。

単に「好き」というのでは「かわいい」と感情的に同レベルであり、どんなに好きなものでも所有できてしまうと、そこで終わってしまいます。

しかし、「美しい」は生み出さなくては満足できませんので、なんとか生み出そうとします。
しかし、大抵はうまくいきません。
小麦は枯れるし、株は大損。口げんかにも勝てないし、ピタゴラスの定理も証明できないかもしれません。
それでも、美を感じる心がある限り、生み出したいという欲求は持続し、何度失敗しても再び挑戦できます。

そして、この生み出したいという欲求は、美を感じる感性が強ければ強いほど、高まっていくのではないかと思います。
およそ一流と呼ばれる人は、この美的感性が鋭く、強いのではないでしょうか。
つまり美を感じる心があればこそ、常に向上心を持つことができ、とんでもない偉業を成し遂げることができるのではないかと思うのです。

好きなことは仕事ではなく趣味にしろ、というのは正しいのかもしれません。
趣味は所有・習得してニコニコしていれば良いですが、仕事には向上心が必要です。

* * *

そういうわけで、学校では是非、美を中心に授業をしてみたらどうかと思います。
もちろん、毎日美術の時間を設けて、絵画を鑑賞させろ、というのではありません。
あらゆる教科で、その美しさを説くのです。

例えば、嫌われる傾向にある数学や物理などは、特に美しさを説くべきだと思いますし、また説きやすい教科だと思います。
「数学とか、+-×÷だけありゃ、実際困らなくね?」とよく言われますが、これは数学で美しさが教えられていない証拠です。

問題集も、ただパターンを暗記するためのものではなくて、その美しさを実感できるものであるべきです。

もちろん、それでも皆が同じように数学が美しいと思えるわけではありません。それは当然です。
だから全ての教科で行う必要があると思うのです。
もし、義務教育を終えた段階で、美しいと思えるものが無かったら、無理に普通科高校に進学するのではなく、別の道へ美を求めても良いと思います。

さらに付加価値として、このように美しいものに対する感性が鋭くなっていると、社会全体がより良いものになると思います。
例えば、ゴミやタバコのポイ捨ては減るでしょうし、人を騙すような犯罪も減りそうです。
(まあ、この辺は道徳教育の役割も大きいでしょう・・)

いずれにしろ、美に対する感性を磨くのは自分の人生にとってプラスになるのは間違いないと思います。

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