鈴木三重吉 - 桑の実
久しぶりに小説読んだ。
なんとも言えない小説。
大きな事件や展開があるわけでもなく、ただ淡々と、そして穏やかに時が流れる物語。
結構、本を読むと、いろいろ考えさせられたりすることが多いけど、
そういうのが無いことがちょっとした衝撃だった。
ある意味とても癒し系。
ただただ理想のひとを書こうと思って書かれたものらしいが、
三重吉はこれを書いた当時、かなり精神的に参っていたとか。
ちょっと信じがたいが、分かる気がしないでもなく……
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久しぶりに小説読んだ。
なんとも言えない小説。
大きな事件や展開があるわけでもなく、ただ淡々と、そして穏やかに時が流れる物語。
結構、本を読むと、いろいろ考えさせられたりすることが多いけど、
そういうのが無いことがちょっとした衝撃だった。
ある意味とても癒し系。
ただただ理想のひとを書こうと思って書かれたものらしいが、
三重吉はこれを書いた当時、かなり精神的に参っていたとか。
ちょっと信じがたいが、分かる気がしないでもなく……
行人を読んだ。
一郎の苦悩を弟や、一郎の友人の視点から描いた作品。
一郎は苦悩を脱したい、あるいは脱することができるはずなのに、脱しない、そんな人だ。
そして、この苦悩からは逃れられない運命にある気がする。
なぜという具体的な理由は無いのだが、
自分と一郎のシンクロ率がかなり高い気がするので、なんとなくそう思うのだ(笑)
以前、漱石作品が好きな理由に、登場人物中に自分と似た人が出てくるから、
というのを挙げたが、今回は一郎である。
苦悩の原因を探り、解明しようとしてまた苦しむ。
しかも解明したところで、どうもならないのはよく分かっている。
途中出てくる比喩がうまい。
「山がある。その山を呼び寄せるが、山は来ない。だから自分のほうから山へ行く。」
一郎は山を呼び続け、疲れ果てるのである。
そして恐らく自分のほうから山へ行かなくてはならないことを知りつつ、
それでも呼び続けることをやめられない。
周囲から見れば、結局ただの厄介者である。
その厄介な様子が、他人の視点を通じて、表面から内面までよく表現できている。
個人的には結構好きな作品。
ただ、よく分からない人にはよく分からない本なんだろうな、という気もする。
兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします
オススメ度★★★
関連記事:
夏目漱石 - 彼岸過迄
関連リンク:
青空文庫 夏目漱石 行人
二百十日と、野分を読んだ。
二百十日のほうは会話主体でさくっと読める。
友人同士の二人があれこれ話しながら山に登る話。
主張しつつ笑いどころもある佳作だと思う。
作品としてもっと良かったのは野分のほう。
3点ほど印象に残った箇所を。
1.漱石らしい自己本位の主張
一能の士は一能に拘泥(こうでい)し、一芸の人は一芸に拘泥して己れを苦しめている。
(中略)
「自己が拘泥するのは他人が自己に注意を集注すると思うからで、つまりは他人が拘泥するからである。……」
わが道を行くべく、拘泥しないために、
一、他人が自分の何かに拘泥しても、自分は拘泥しないこと
これは難しい。
二、拘泥しなくてすむように大樹に寄る。時流に従う。
これはやりやすい。
いずれにしろ、むやみに他人の視線に拘り、
つまらないことで時間をとられて、
成すべきことを成せない、ということが無いようにせよという主張。
2.観察眼が光るシーン
ここだけ抜き出すと分かりづらいかもしれないが、
親友(高柳君)を結婚披露宴に招いたシーン。
高柳君は予想外にみすぼらしい姿でやってくる。
世の中は「これは」と思った時、引き返せぬものである。高柳君は蹌踉(そうろう)として進んでくる。夫婦の胸にはっときざした「これは」は、すぐと愛の光りに姿をかくす。
「やあ、よく来てくれた。あまり遅いから、どうしたかと思って心配していたところだった」偽りもない事実である。ただ「これは」と思った事だけを略したまでである。
「早く来ようと思ったが、つい用があって……」これも事実である。けれどもやはり「これは」が略されている。人間の交際にはいつでも「これは」が略される。略された「これは」が重なると、喧嘩なしの絶交となる。親しき夫婦、親しき朋友が、腹のなかの「これは、これは」でなし崩しに愛想をつかし合っている。
漱石作品はこういう描写が多くて面白い。
3.最終シーン
これも流れの中でのことなので、抜き出して紹介するのは難しいが、
クライマックスの盛り上げ方はいつもすごいと思う。
彼岸過迄なんかもだったけど、
停滞気味な流れから急展開させることによる迫力は相当なもん。
それをラストにもってくるんだからつい感動してしまう。
この辺は魅せ方のうまさだなー。
重要な主張はもっと地味にやってるけど、物語としてエキサイトさせることも忘れてない感じ。
オススメ度★★★
関連記事:
夏目漱石 - 彼岸過迄
関連リンク:
青空文庫 夏目漱石 野分
蟹工船を読んだ。
社会科の授業などでも一度は出てくる有名本。
例によってタイトルしか知らなかったので、読んでみた。
内容はご存知の通り、労働者の過酷な労働と搾取について。
でも、実際どういう話かは知らない人も多いかと思う。
あらすじは以下のとおり。
カニを獲るために地方の労働者が半分だまされた形で集められ、
劣悪な条件の中、死人の出るほど過酷な労働を強いられる。
耐え切れなくなった労働者は、団結し立ち上がらなければならないことを自ら知る。
一度は失敗し、全てのリーダーが捕らえられるが、
その後すぐに全労働者が立ち上がり、抵抗活動を成功させる。
「日本、まだ、まだ駄目。働く人、これ。(腰をかがめて縮こまってみせる)働かない人、これ。(偉張って、相手をなぐり倒す恰好)それ、みんな駄目! 働く人、これ。(形相凄(すご)く立ち上る、突ッかかって行く恰好。相手をなぐり倒し、フンづける真似)働かない人、これ。(逃げる恰好)――日本、働く人ばかり、いい国。――プロレタリアの国! ――分る?」
労働者(プロレタリア)がいなければ、資本家は何もできない、
という当たり前のことだが、労働者全員が真に自覚するのは難しいことだ。
本作はかなりの部分が「過酷な労働」の描写にページが割かれているが、
重要なのは、最後の最後「リーダーがいなくなっても立ち上がる人々」というところだと思う。
一部のリーダーに頼りきっていることと、資本家の下の労働者でいることは、
判断を他人にゆだねるという点においては同じことだ。
リーダーを失った時、それでも進むべき道を進めるか。
そんなメッセージが、本書を単なるドキュメンタリーで終わらせない、
時代の刹那に普遍性を見出す、名作たる所以であるように思う。
オススメ度★★★
関連リンク:
青空文庫 小林多喜二 - 蟹工船
彼岸過迄を読んだ。
元旦から書き始めて、彼岸過ぎ迄書くから、彼岸過迄という題。
なので、内容とは全然関係無い。
それはさておき……
漱石の作品は、登場人物に一人は自分と似た人が出てくる率が高いから好きだ。
完全に同じではないけど、考え方の端々が似てる。
誰か一人でなく、複数の登場人物にまたがることもある。
本作では、須永を中心に、敬太郎、松本あたりがそれだ。
無駄に色々悩んで、一人で神経すり減らすタイプorz
悩むのはいいが、考えすぎはダメだ、
と言いたくなるような感じかもしれない。
話としては、とりとめのないようで、意外と起承転結があるような、
読み終わってみると、かなり好きな作品になっていた。
虞美人草の時に、漱石は「書いているうちに登場人物が勝手に歩いてくれるでしょう」といったことを言ってたけど、
この作品で初めて勝手に歩く登場人物を見た気がする。
特に、ヤマ場は、須永の話の終盤。
幼馴染の千代子と、それとなく将来は結婚か、というところで、
やっぱり家族のように育ってきた千代子とは夫婦という感じでもないし、
かと言って、他の人との結婚は考えられないし、といったふう。
作中では、須永の視点で一方的な思考が語られるわけだが、
そこはやっぱり、独りよがり&思い込みがちな思考になる。
千代子に対しては、兄妹のような感覚を持ちながら、
一方で見栄もあり、一人で微妙な牽制をしているのだが、
明らかに結婚候補っぽい人物が現れた終盤……
千代子に卑怯だと言われ、卑怯の意味が、
自分の引っ込み思案なところに向けられたものだと思う須永と、
自分の言う所の意味を分かってもらえない千代子。
「じゃ卑怯の意味を話してあげます」と云って千代子は泣き出した。
この涙に半分引き気味の須永。
僕は心を動かす所なく、彼女の涙の間から如何なる説明が出るだろうと待ち設けた。
彼女の唇を洩れるものは、自己の体面を飾る強弁より外に何も有る筈がないと、僕は固く信じていたからである。
千代子は、須永が自分を馬鹿にしており、
そして、結局自分と結婚する気が無いのだと須永に訴える。
「唯何故愛してもいず、細君にもしようと思っていない妾(わたし)に対して……」
彼女は此処へ来て急に口籠った。不敏な僕はその後へ何が出て来るのかまだ覚(さと)れなかった。
続きを促す須永に、千代子は答える。
彼女は突然物を衝き破った風に、
「何故嫉妬なさるんです」と云い切って、前より劇しく泣き出した。
僕はさっと血が顔に上る時の熱りを両方の頬に感じた。
うわー、ばれてるー!と思った。
確かに須永は嫉妬していた。しかし、それは心に秘めたものであって、
決して他人に分かるはずは無かった。無いと思っていた。
(何しろ須永自身よく分かっていなかったのだ)
そんな須永視点に完全にひたりきってた所で、このセリフは効く。
この瞬間、彼らは漱石の創作した人物ではなくなっていた。
なんとなく間延びした展開がここで一気に締められ、
余韻を残しつつ、最後の松本と、敬太郎の話が続く。
もちろん、読みどころは他にもある。
たぶん読むたびに新しい発見があるんじゃないかと思う。
とりあえずは大学生くらいの方にオススメ。
オススメ度★★★★
ジーキル博士とハイド氏を読んだ。
ちなみに、著者はジムやシルバー船長の「宝島」を書いた人。
二重人格の代名詞とも言える本作は、
知ってはいるけど、読んだことない、というパターンの一冊。
想像通り、ジーキル博士が薬によって、ハイド氏になったはいいが、
ハイド氏になった時の凶行を苦に、最後は死んでしまう話。
基本的には、ジーキル博士とハイド氏の関係を探っている、
友人アタスンの視点で話が展開される。
一番のポイントはやっぱり最後の博士の告白文だろうと思う。
この文で、本作がただの二重人格サスペンスでないことを知るだろう。
ジーキル博士はいわば善良な市民であった。
社会の中で、善良な市民として暮らすということは、
それなりに他者に気を使うということである。
それは普通のことではあるが、やはりこのストレスに耐えがたい人もいる。
善良に見えるほど、あるいはそういう傾向があるかもしれない。
博士は抑圧された悪の自己を具現化させる薬を開発した。
誰しもが心に持ってはいるが、決して人前には見せない部分、
そんな部分だけでできた人間がハイド氏である。
ハイド氏は本質的に醜く、不愉快な存在だ。
これは、誰しもが持ちながら、しかし人前では抑圧されるべき存在である。
それは誰もが自覚する。
「自分の中に、抑圧されているもう一人の自分がいる」と。
だからこそ、人は不愉快極まりないハイド氏に、
人間の本質を見出す。
悪の部分を呼び起こし、頭では善へ帰りたいと思いながらも、
抗いようもなく悪に冒されていくジーキル博士に、
同情の念を抱かずにはいられない。
イギリスでこのような作品が生れ、語り継がれたということは、
イギリスがジェントルマンの国であることと無関係ではない、
という作品の解説は特に納得できるものだった。
オススメ度★★★
門を読んだ。
三四郎、それから、に続く前期三部作と呼ばれるものの最後。
宗助が、友人安井と同棲していた御米を、半ば奪う形で結婚し、
そのために背徳者として、家と世間から切り離されて暮らす話。
決して、御米が嫌がってるわけではない。
むしろ二人で一つ、お互いがいれば他には何もいらない、
というくらいの仲。
背徳という闇の中にともる灯火のような二人だが、
決して不幸には見えない。
実際彼らは不幸ではなかったが、
不幸でないことを自覚しているわけでもない。
ただ世間の風雨を人一倍感じざるをえないだけである。
背徳者だけが感じる不安が巧妙に描かれている。
最後の御米と宗助の会話。
御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。漸くの事春になって」といって、晴れ晴れしい眉を張った。
宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。
このシーンは、そのまま冒頭のシーンにつなげることもできる。
季節がめぐるように訪れる、終わることのない不安を暗示している。
以下、深読みコーナー。
大家さんが饅頭をごちそうしてくれる場面。
主人は箸とも楊枝とも片の付かないもので、無雑作に饅頭を割って、むしゃむしゃ食い始めた。宗助も顰に倣った。
というくだりがあるのだが、「顰(ひそみ)に倣う」というのは、「真似すること」を謙遜した言い方だ。
この語源を調べてみると面白い。
「顰に倣う」は「西施(せいし)の顰に倣う」という中国の話から来ていて、
その話は以下のようなものである。
春秋時代、西施という美女がいた。
西施が胸の病で、苦しみ、眉をひそめていたところ、
それを見た醜女が美しいと思い、自分も真似をしたところ、
あまりの醜さに金持ちの村人は門を閉ざし、
貧乏人は逃げ出した。
この逸話は漱石も知っていたんじゃないかと思うが、
門というテーマにひっかけていたとしたら面白い。
…まあ、たぶんそんなことは無くて、
たまたま使おうと思った言葉と逸話が関係あるっぽいだけだろうが。
オススメ度★★★★
関連記事:
夏目漱石 - 三四郎
夏目漱石 - それから