ゲームと芸術
時々、ゲームは芸術たりえるか、とか考えたりする。
ゲームというのはいわゆる古典・伝統的なものではなく、
現代的な、日々量産されているビデオゲームなどだ。
この問いは切り口が多くて一度には考えつくせないと思うので、
思い出した時に考えることにしている。
ということで、たまには無駄に頭を働かせてみよう・・。
今日は「本質」という切り口で。
もし、世界の本質などというものがあるとすれば、
音楽、絵画、文学、ゲーム、
そういう概念は世界の本質の具象化だ。
ここで言う世界というのは人間を取り巻く環境そのものを指す。
そして、本質が概念に先立って存在するのであれば、
概念が本質的に不平等であるはずはない。
本質と別に概念があるというより、
本質の様々な振る舞いを概念と呼ぶほうがいいかな・・。
世界の本質を捉えたものを芸術と呼ぶなら、
あらゆる概念は芸術たる資格がありそうだ。
ところで、概念のほとんどは目的に通じ、目的は生に通じる。
目的の無いもの(それは死そのものしか無い気もするが・・)は死に通じる。
つまり、世界の本質は究極的には生と死に集約される。
となると、生と死が意識されない作品が芸術になりうるだろうか・・
ビジネスとして育ったゲームは、プレイヤーを大事にしてきた。
大事にせざるを得なかった。
プレイヤーはセーフティネットで守られる。
生と死の意識がそれだけ薄められる。
システムがプレイヤーにやさしくなればなるほど、
あるいは、システムが複雑化するほど、
意識はシステムへと流れる。
皮肉なことに、ハード環境に余裕が無かった時代のほうがより本質に近かった。
貧しい描画能力では、描く対象の本質を観察する必要があった。
要するに、表現力が乏しいなら、余分なものは全てそぎ落とす必要があるのだ。
そして、貧しい演算能力と記憶能力は、システムにも同様の要求をする。
(貧しいことは芸術にとってマイナスではないかもしれない・・)
システムへの意識が低い分、
ゲームとしては不親切だったかもしれないが、
本質により近かったという意味で、
昨今のゲームよりは芸術度が高いようにも思える。
FF12を忘れても、スペランカーは忘れないのである。
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芸術、人間の勝利
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はじめまして、
「Webゲーム開発」のコミュニティに参加させて
いただいているCrunkyです。
「皮肉なことに、ハード環境に余裕が無かった時代のほうがより本質に近かった。」
その通りだと思います。
昔は開発環境に余裕が無かったために、
表現力を上げるために、「人の知恵」が使われていたように
思います。
ゆえに心に響くのではないでしょうか。
開発環境の進化が著しい昨今にあっては、
技術に頼りっぱなしであまり考えることをせず、
本質を見失っているのではないでしょうか。
興味深い記事ありがとうございます。
失礼します。
こんにちは。
何でも、高性能ならいい、というわけでもないですね。
結局のところ、そこから人間が見えてこないといけないんでしょう。
人の知恵、というのもその一つだと思います。