嘔吐を読んだ。

「存在」に関する哲学的テーマを持った小説。

主人公アントワーヌ・ロカンタンが一般市民的生活を送りながらも、(その生活から見れば)半分狂ったような思考をしているお話。
でも、ロカンタンに共感できる人も結構いる気はする。

存在については、去年の暮れごろからのテーマです。

何かについて思考するとき、その対象は「在る」ものについてであることがほとんどですが、その「在る」とは何でしょう。
この日常の違和感のようなものから始まり、「在る」ことについての発見へと至ります。

存在について考えるとき厄介なのは、
存在というものがあまりにも当然すぎて、
何を考えたらいいのか分からないということしょう。

とりあえず「存在するもの」を実感するための、とっかかりとして、
「本質は実存に先立つ」
という考え方があります。

存在しているものの中には、まず何らかの本質があって、
その後で実存(モノ)があということです。

例えば、「紙を切れる何か」「音楽を聴く何か」という本質があって、
「ハサミ」「CDプレイヤー」のようなモノが生まれている、
というのがそれです。

部屋や街を見回せば、ほとんどがそういうモノです。

逆に
「実存が本質に先立っ」ているものもありそうです。
個人的には、植物や水、動物、人間なんかが
それに当たると思うのですが、人間だけという考えもあるようです。

要するに、「二本足で歩く何か」のような本質がなく、
ただ存在ありき、で存在するものです。

例えば人間を創造した「神」が存在しなければ、
人間は本質を持たない存在ということになります。
(この辺が実存主義)

こんな感じで、世界は存在するもので満ち溢れているわけですが・・・

* * *

ロカンタンは気づきます。
全ての存在は、不条理で、余計なものであると。

存在するものは、その意味や理由を厳密に語りつくせないという意味で不条理です。

(逆に説明や理屈というものは存在しないが故に、不条理ではないと言います。
例えば点と点を結んだものが線分であるというのは、
ただ言葉で定義され、充分説明されるているだけで、
それらは存在せず、不条理ではありません。)

この辺りでライプニッツが出てくるようです。

「なぜ無でなく、何ものかが存在するのか」

存在には全て理由があり、理由がなければならないと説きます。

理由があるということは、「なぜ?」という問いに答えられるということです。

ここでは「なぜ?」の連鎖を作ることができます。
子供のときに一度はやって親を困らせ(怒らせ?)たのではないでしょうか?

「なんでこの花は赤いの」
「虫が来るようにだよ」
「なんで虫が来るようにするの」
「実をつけるためだよ」
「なんで実をつけるの」

みたいな。

で、この行き着く先は二つあって、
一つは全ての創造者「神」。
もう一つは意味の無限の遅延、あるいは循環。

後者の場合は完全に不条理です。

つまり、その不条理から逃れるために神がいるというわけです。

しかし・・

そしてたちまち一挙にして幕が裂け私は理解した。
私は<見た>。

ロカンタンは「見て」しまったんですね。

存在そのものについて、神とか、言葉とかいうレッテルを貼れなくなってしまった。
貼ろうとしても、簡単にはがれ落ちるようになってしまった。

そこで、全てのものが不条理となり、
自分の存在そのものが余計なものであることに気づいたわけです。

* * *

普通は、この事実から逃れて楽しく暮らすために、
それぞれの事柄に関連性と意味を持たせて生活を充実させます。
あるいは便利屋としての神を引き出します。

これを自己欺瞞と言います。

たぶん、買ってから一度しか使ってないものを見つめて、
「なんで、こんなもの買ったんだろう」
とか思うときが、かなり、その存在そのものに接近している時です。

そのもの自体が、ここにある必要性も必然性も全く無い。

ただ「在る」だけの不条理で余計なものです。

そして、自己欺瞞も実感しやすい。
「それを得ることで満足できた」
「今後有益になるかもしれない」
と言って、しまいこみます。

実は、自分の持ち物は全て、余計なものです。
時々持ち物を処分したい衝動にかられます。
そのものから、自分が付与した「意味」が剥がれ落ちるからです。

しかし、結局全てを捨てた後でも、
自分という存在が残ります。
こればっかりは捨てられません。

ロカンタンも自殺はしないだろう、としています。
後に残る骨すら余計なものです。

* * *

ふむ・・ようやく、分かりかけてきた。

この本はなんて不条理な、余計なものでありましょうか。

オススメ度★★★★

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