新聞報道と顔写真
新聞報道と顔写真 写真のウソとマコト
を読んだ。

以前から気になっていたのですが、事件などが起こるたびに、被害者の顔写真などが掲載されているのを見て、遺族の方って本当に載せたくて載せているのかなと思っていた所に、この本があったので借りてみました。

本書では、新聞における写真の役割の変遷などが書かれています。
新聞「記事」の歴史などに関する文は多いのですが、この本は特に写真に焦点を絞っているのが特徴です。

さて、冒頭の疑問ですが、やはり以前は「ガン首集め」という呼び方があったように、人の首の写真を各新聞社が競争するごとく集めていた時期があったようです。
その中には
・警察クラブを名乗り、警察関係者であるように思わせて写真を拝借
・遺族が気づかない間に遺影を拝借
・他社に取られないよう、その家にある写真は全て拝借
など、半分盗むようにして遺族から得た写真もあると言います。

やはり全ての被害者が望んで提供したわけではないことが分かります。

* * *

本文中で引用されている1854年のキルケゴールの警句

誰でも肖像写真を撮ってもらえるようになるだろう ? 以前は著名人だけであったが。しかも同時に、われわれが皆そっくり同じ顔をしているように見せるべく事が運ばれている ? 故にわれわれの肖像写真は一枚あればよいということになるだろう

は、この問題を別の観点から指摘しています。

つまり、新聞の顔写真は、もはや真実を知るための写真ではないということです。

実際、紙面を作る際、顔写真は選別され、ことによると見やすいように修正されていると言います。

これは情報発信者が自分の意思を伝えるための道具にしているに過ぎない、という見方もできます。
新聞やニュースが客観的であることは決してありません。

凶悪な事件が起こったとき必要なのは、本当の被害者・加害者の写真ではなく、
「哀れで同情すべき」被害者像と、「憎むべき」加害者像なのです。

その感情を読者にかきたてさせるための手段が顔写真というわけです。

従って、発信側も読者側も、被害者・加害者を個の被害者・加害者ではなく、被害者一般・加害者一般で見ることになります。
これがキルケゴールの言う「われわれの肖像写真は一枚あればよいということになるだろう」に通じているのではないでしょうか。

発信側・読者側も、顔写真を(無意識であれ)「被害者一般」として見るのであれば、事件に関わった一人の人間の尊厳を貶める行為ということになります。

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それでも犯罪の報道は、今この社会で何が起きているのか、そして自分達一人ひとりが何をしなればならないのかを考えさせるという意味では、必要なものです。

しかし被害者や加害者が匿名で、かつ写真も無ければ、記事はどうしても事務的なものになってしまうでしょうから、難しいものですね。

オススメ度★★