しろログ

日々巡り会ったものの感想・レビュー

ダイバーシティ

Google、中の人の「女性は生まれつきエンジニアに向かない」文書回覧で社内騒然

この件に関連して、「性別関係なく、能力で見て採用すべき」という意見をチラホラ見かけた。

一見ダイバーシティ的とは思うけれど、真にダイバーシティを実現するにはまずは無理にでも男女半々という目標は掲げてみて良いように思う。

これはいろんな分野で言えることだけれども、男女問わずエンジニアという職に就いてやっていけるという事実と社会的な認識が無い限り、主に女性の裾野が広がらない。
つまり能力で見るにしても、結局いつまでたっても「多くの男性と一部の女性」からしか選べないことになる。

これを「多くの男性と多くの女性」から選べるようにしたいわけだ。

そこで無理にでも男女半々という事実を作っておくことで、生活手段としての「エンジニア」という職業が全ての女性にとって現実的になるようにする。
その結果、エンジニアを志してみようという女性が増え、最終的には男女問わず、能力の高い者を選べるようになる。

エンジニアに男性も女性もない、そういう認識が当たり前のようになって初めて、
「性別関係なく、能力で見て採用すべき」
というやり方が生きてくるように思う。

まずは平等である事実を作る。

無理に男女半々にするのは短期的には損失であり、何も良いことが無いように見えるかもしれない。
しかし、それが将来もっとも合理的な状況を作り出すことににつながるのではないか。

社会的な観点からも、Googleレベルの企業であれば、これは試す価値のある挑戦であり投資のように思える。

# 人によってエンジニアに向き不向きがあるらしいことは医学的にも根拠があるらしいが、性別でそういうのがあるかは分からない。ここでは無い前提で考えた。

# 日本でも女性の活躍云々を謳うなら、まず平等な環境からだとも思うけど、何故か男女平等という言葉は聞こえてこないな・・

破綻してからが勝負

NHKスペシャル「又吉直樹 第二作への苦闘」を見た。

その中での、古井由吉さんの言葉。

小説の面白さというのは破綻の面白さじゃないかな
途中で破綻したのをなんとか
つぶれないようにして乗り切った
そこで火事場の馬鹿力みたいのが出てると
読むほうに感動を与えるんですよ

スランプというのは、かえってスラスラと書けてしまったりして、そういうのは危険だと。
手グセで書いてしまって、無難にまとまるが、進歩も発見も無い、という感じだろうか。

これは小説以外にも、創作全般に当てはまる気がした。

何を作るにしても、作っているうちに、あっちを直し、こっちを直しで、全体としてイマイチな気がするし、新しく作り直したほうが早いと思うことはよくある。
そうして未完の山が出来上がる・・

でも、破綻していいんだ。

そこからどうやって見られるものにするか。

それが腕の見せ所・・

そう考えると、肩の力が抜けるし、やる気が出てくる。

番組の文脈的にも、極意というよりは、励まし的な意味合いが強いのかなという感じだけれども。

まずは完成させる、という観点からも励みになる言葉。

「好きなこと」を仕事にすべきか – 適性について

こちら、スタジオジブリが1989年に新人アニメーターを募集した時の記事で、募集要項に加えて、業界の現状や求められる人材について過不足なく書かれていて求人広告の見本のような感じで良いなぁと思った。

その中で、お断りする方々の例として、以下のようなパターンを挙げている。

「絵が下手なんだけどアニメは大すきなんです」
「マニアなんです どんな仕事でもいいです」
「○○プロダクションで原画かいてます 一からやりなおしたい」
「無給でもいいです 現場を見たいんです」

なぜか。

この職場に何よりも必要とするのは適性だからです
意欲がなければダメですが
意欲だけでもダメです

あー、なんかコレが全てかなぁ、という気になりましたね。
平たく言えば、性に合ってるかどうか。

仕事(あるいは進路)をどう選ぶか。

今まで「好きなこと」「興味のあること」を軸に考えてたけど、土台には「適性があること」が必要なのかな、と。

「好き」っていう気持ちは、もちろん長く続くこともあるんだろうけど、30年40年続くかは分からない。
でも仕事はそういうスパンで続くわけで、好きでなくなっても続けられるか、と問われた時、少なくとも適性があれば続けられるんじゃないかという気はしてくる。

「好き」だけを支えにすると、好きでなくなった時にポキリと折れるだろう。

よく好きなことを見つける、やりたいことを見つける、というけれど、そうではなくて、性に合うことを見つける。

とりたてて好きなことも、やりたいこともない。けど、性に合うものなら・・。
そう考えると少し楽になるんじゃないだろうか。

好きで興味があって適性があれば最高だけれども、大抵の仕事はそういうものではないだろうし、数十年という長いスパンで、モチベーションMAXで取り組み続けるというわけにもいかない。

若さとパッションが失われても、ただ性に合ってる、というだけで無心で取り組めることもあるのだ。

職業は冷静に選びましょう

というのはそういうことなんじゃないかと思う。

適性を探る、そのために20代のうちに転職を繰り返してみるのは特別悪いことではない気がする。
どこでどう「適性」というものを感じ取れば良いのか、は最後にして最大の難問かもしれんけど・・。

関連記事
「好きなこと」を仕事にすべきか2016
「好きなこと」を仕事にすべきか – 美について

人喰いの大鷲トリコ

このブログの古い記事を引っ張り出してみよう・・
ICO
ワンダと巨像

諸君、あれから10年が経ったのだ!

満を持して新作の登場・・
過去記事の通り、ICOとワンダは大好きなのだけれども、トリコのトレーラーを見るに、さほど期待はしていなかった。
これはICOとワンダの単なる延長でしかない、と。

それでも購入してみたのは、先日PS4 proを買ったものの、なんとなく持て余してて、適当なソフトを探してたからにすぎない。

そして、プレイしてみた結果、やはり単なる延長的存在であった。

質が低いわけではない。
シリーズ最新作の名に恥じない、非常に完成度の高いものと言える。
風景描写はもちろん、トリコのAIなどは、こちらの意図が無理なく伝わるように見えることに驚く。

しかし、それだけである。

ICOやワンダをプレイしたことのない方にはオススメできる。(ただ機会があればICOかワンダをオススメしたい)
また、なんでもいいからあの雰囲気に浸っていたい、という方にもオススメだ。

徹底して一つの世界、一つの物語を作り上げている。
そういう「作品」として見るべきなのだろう。

元々の個人的な性分だと思うけれど、歳のせいも加わって、最近「以前見たもの、以前やったもの」に対する飽きが尋常でない。
トリコも同じで、これはICOで見たし、ワンダでやったのだ。
もういい。

無料体験版であったなら、本編は買わないだろう。
でも買ってしまったからやる・・
(幸か不幸か、大したボリュームではないのだ。適当にやっても4〜5日で終わってしまうだろう)

そう思ってるせいか、プレイ中もイラっとするところがある。

とにかく操作性が悪い。
少年の動きは微に入り細に入り、よくできているのだけれど、それらを正確にモーションするために、思ってる動作にすぐ入らないことがある。
また、基本的にやたら高所で足場の悪いシーン、狭いシーンが多いため、スムーズな移動ができず、すぐ淵に接触してフラついたり、唐突に物に体当たりしてよろけたりする。
(そのたびにヒヤッとさせられ、しまいには落ちるなら落ちろ、という心の荒み具合に!)

他にも、カメラワークがー、とか、トリコの動きがー、とかあるけど、それらはまあ操作性に比べたら些細なこととしておきたい。

いや、操作性にしたって、この世界をしっかり満喫するつもりで、のんびりプレイすれば大して気にならないだろうとは思う。

うん。要するに、もう飽きてしまった。それだけのことだ。

宮崎駿の見るAI

11/13に放映された「終わらない人 宮崎駿」を見た。

内容的には、長編引退宣言からの宮崎駿を追うもので、まあ想像通り創作は続けてるっていうのを再確認し、うんうんそうだよね、とニヤニヤして終了。

だったのだけれども、一点、AIとCGに関するシーンのことで、モヤモヤしたので、一応自分なりの整理をつけようかなというメモ。

詳しくは割愛するけど、下記が監督・川上氏の関係含めて、いい感じにざっくりまとまっている。
宮崎駿監督、ドワンゴ川上量生に激怒「生命に対する侮辱」

あとたぶん川上氏の匿名ダイアリー。
めっちゃ怒られているのがテレビで放送されてしまった

正直、両氏を直接知ってるわけでも詳しくもないので、以下、妄想に近いです。
(セリフとかは、なんとなく覚えいるものなので、厳密には違うかも)

■不用意さ

一応、IT業界の末席にいる者として、川上氏の意図するところは汲めていると思ってる。

今CGの世界でもAIが導入され始めている。
これはAIが学習し、描き出すという意味で、これまでとは次元の違う段階に入った。
それはまだ実用段階ではないけれども、その可能性、その萌芽を監督にも肌で感じて欲しい、あるいは刺激・インスピレーションの一助になれば、ということだったと思う。

鈴木Pは実務の人らしく、ゴールを問うていたが、(それに対し絵を描く機械とか言ってたけど)実際にはAIが作り出すものの面白さ、その可能性の地平を押し広げてみている段階だなのではないか。

ここで言う「AIの面白さ」というのは、動きそのものというより「人が思いもよらなかった動きを作り出せる」ことにあるのだと思う。
人はこういうふうに移動するものだ、という固定観念を壊してくれるので面白いですよね、という話で、例えば身体障害者を想起させる動作を指して面白がるものではない。

んでもって、IT系というか、理系というか、そっち方面では、こういうドライな話はわりとまかり通る。

数値とか、統計とか、形而上学的なこと、論理学的なことを常日頃考えていて、物事をどこか現実と切り離して考えてしまうクセがあったりするのだ。

感情に結びつけると、冷静な分析ができない、という意識もあるかもしれない。

ただ、今回のプレゼン相手は同業者ではないし、世代も違う。
理屈よりも感性が研ぎ澄まされている人だし、スクリーンに映し出されたものが全ての人だ。

そこでなぜグロテスクな人型を用いてしまったのかは本当に謎すぎる。
まして、痛覚も無いだとか、頭が大事とか考えてない、などと解説するのは、もう輪をかけて誤解してくださいと言っているようなもので、本当に不用意だと思った。

軽くCG周りの最新事情を紹介する程度、と思っていて深く考えなかったのかもしれない。

ただ、ことアニメ・CGという専門分野で、監督は常に超本気なのだ。

完全に宮崎駿という人を見誤った、ということなんだと思う。

■生命に対する侮辱

AIによる生体実験は生命に対する侮辱であるか。
問い自体は、非常に哲学的・倫理的な問題で、これについては置いておく。

が、監督には、侮辱であると感じられたであろうし、そう断じてもいいような気がした。

Wikipediaのアニメーションの項目には

animation(アニメーション)は、ラテン語で霊魂を意味するanima(アニマ)に由来しており、生命のない動かないものに命を与えて動かすことを意味する

とある。

アニメーターという仕事は、命を吹き込む仕事である。

そんな仕事に人生の大半をかけてきた。

生けとし生けるものを観察するほどに、生命の神秘、あるいは畏敬の念を感じただろう。

インターネットや資料で手に入るものは情報でもなんでもない、現実に見て、触れて、五感で感じたものでないと「インプット」ではないし、アウトプットもできない。

現実とリンクしたインプットとアウトプットを繰り返して、少なくともこの世は生きるに値するものなんだ、ということを伝えるために制作に打ち込んできた。

自然界へのロケを行い、自然とは何か、命とは何か、動きとは何か、アニメートとは・・
何十年もただひたすら、それを追求してきた。

そんな人にあの映像を見せたら・・

(錬金術師がホムンクルスの生成に失敗したようなもの出して)
今、CGもAIでー、機械が自動学習でこんな動きさせるんすよー、アニメってこんな感じっしょ、へへん。

と言われたように思われても仕方がないんじゃないのか。

うむ、これは控えめに言って侮辱である・・

生涯を懸けた仕事に対する、アニメーターに対する、ひいては生に対する侮辱ではないか!

(勝手に沸点に達する音)

■なぜこのシーンを採用したのか
そもそも、いろんな誤解を生みやすそうなこのシーンをなぜサクッと入れてきたのか。

どうも、番組制作サイドの強い要望だったようだ。

匿名ダイアリーでは「あんな美味しい映像をAさんが使いたいと思うのは当然だよなと思えた」と書かれているけど、単に「美味しい」からなのか。

個人的に、本当に入れたかったのは、監督の「人間が自信をなくしてる」というセリフだったんじゃないかな、と思っている。

CGのインパクトが強すぎて、さらっと流れていったけど、これはAIに対する鋭い指摘だと思った。
もしかすると今回の番組で最も重要な指摘だったかもしれない。

で、この短い言葉を入れるには、どうしてもAIによるCGというくだりがいる。

そうであれば、いろいろ納得。

(そうでなければいやな制作だ・・)

■AI

(AIが台頭することに対して)人間の方が自信を無くしてる

さっきも書いたようにAIについて、そういう視点は持ってなかったので、衝撃だった。

(こういう視点を持てないと世に問う作品なんぞ作れないのだ・・)

個人的にAIに対しては、人間の限界というよりも、新たな可能性という視点を持っていたし、AIに携わる多くの人がそうだと思う。

コミュニケーション、自動運転、医療診断、エンターテインメント、そういった分野のAIは今後さらに拡大し、多大な恩恵があるだろう。

ただそれらの発展は、人間が無意識のうちに限界を感じ、自信を無くした結果かもしれない。

そしてAIの進化は、人間の限界を(人間が自ら無意識のうちに)より低いところへ押し下げるかもしれない。

AIに対して感じる、そこはかとない恐怖って、AIの暴走とか直接的なものだと思ってたけど、自分たちの能力や可能性を狭め続けていくかもしれないという間接的なものもあるんじゃないか、って思い始めた。

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